めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年5月8日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<名前>



★旧約聖書 イザヤ書 43:1
   だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを
   形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあ
   なたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
 
★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3
   私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与
       えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

●12弟子の筆頭であるペテロの本名は、バルヨナ・シモンであった。 バルヨナの意味は「ヨナ
(またはヨハネ)の息子」で、シモンは、ヘブライ語のシメオンをギリシャ語に音訳したものであ
る。その意味は「聞く」である。 そのシモンが、イエスから「あなたはペテロです」と言われた。 

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というイエスの質問に、ペテロは「あなたは、
生ける神の御子キリストです。」
と答えた。 主は、ペテロがそのように答えることができたの
は、天にいますわたしの父が、あなたに示したからである、と言われた。(マタイ16:15〜17) 

このペテロという名はギリシャ語で「岩」という意味がある。 イエスはそのペテロに「あなたは
ペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」
と言われた。 ペテロ(ペトロ)
という名前は「岩」だけでなく、広い意味では、岩から崩れ落ちた「石ころ」という意味もあると
いう。 

「石ころ」ということばは、マタイ3:9「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こす
ことがおできになるのです。」
とある。 要は、この世の取るに足りない者や見下されている者
であっても、神はそれを救い上げて神の子としてくださり、神の子とされた者は訓練、試練に
よって鍛えられ、キリストの弟子として確固たる信仰とされる。 その上に主がご自身の教会
を建て上げてくださるということである。 

「石ころ」である者の信仰や神への愛が、どのように揺さぶられても岩(ペテロ)のようにどっし
りとして動かされない、というだけでなく、そのように変えてくださる神の愛の深さ、力強さこそ、
どっしりとして動かされない「岩」である。 「主はわが岩、わが寄り頼む岩」「神が自分たちの岩
であ」
る。(詩篇18:2、78:35)

キリストのことばを聞いたシモンは、イエスは生ける神の御子キリスト、すなわち神ご自身であ
り、油そそがれた、すべてを支配される王であることを父なる神から示された。 そしてペテロ、
すなわちキリストの弟子として石ころのごとく へりくだり、(悪霊や困難などの)洪水や大風が
吹いても崩れない岩としての生き方へと導かれた。 主がシモン・ペテロに訓練、試練を与え、
様々な経験をさせ、主の喜ばれる器へと整えられた。 キリストのことばを、真に聞き入れた者
は岩と変えられる。 名前の通り、シモンからペテロへの変化である。 このように聖書の登場
人物の名前には、深い意味のある場合が多い。

我々人は親からもらった名前がある。 親にいろいろな意味や願いをこめて名付けてもらった
人も多いことだろう。 クリスチャンの場合、カトリック教会では洗礼名(クリスチャン・ネーム)と
いうのがある。 プロテスタントの教会の場合は、ほとんどないが、「主の十字架クリスチャンセ
ンター」という教団はあるようだ。 しかし、ここは問題のある新興宗教団体とも言われているら
しい。 いずれにしても、クリスチャンはある意味、みな最初はシモンであろう。 そして、キリス
トのことばに聞き従っていくうちに、訓練や試練などを通して、ペテロへと変えられていく。 

さて、名前といえば、この「めんどり通信」を掲載しているHP「めんどり聖書研究会」に「レムナ
ントめんどり教会」のご案内を書いている。 この「レムナントめんどり教会」の名前は、2005年
秋頃から群れの名前を与えてくださるよう、数名のクリスチャンで祈っていた。 すると2006年1
月23日(月)朝、著者が祈っていると主から「レムナントめんどり」というか細い声が聞こえたよ
うに感じた。 肉声ではない。 表現が難しいが、霊の直感にも似た感じである。 主から来た
ことばだと心の深いところでわかった。 悟ったという方が適切かもしれない。 そして、同時に
その意味は、「残りの者たちが集められる」ということだとわかった。 

ただ、そこから自分の思いや考えが入ってきた。 「レムナント」といえば有名な「レムナント誌」
の久保氏や当時、聖書のたとえの解釈では預言者的存在のレムナントキリスト教会のエレミ
ヤ氏がおられ、彼らのことが思い浮かんだ。 彼らは有名で、著者たちの群れはあまりにも小
さい、だから同じ「レムナント」というのは・・・・? しかし主が与えてくださったのは、この小さい
群れの名前であって、彼らとも、また他、日本にある「レムナント」と名のつく教会や団体、書籍
などとは完全に別箇であるから、そのことを主張するため「レムナントめんどり」ではなく「めん
どりレムナント」の方がいいのではないか・・などと。 しかし、ハッとした。 そしてすぐに、自分
の考えや思いを巡らせていたことを主に悔い改めた。 そして、群れの名前を主が、祈りに答
えて与えてくださった「レムナントめんどり」教会と名付けた。 その週の木曜日の集会で証しと
ともに皆に発表した。 共に祈ってきた者たちも主に感謝した。 「レムナントめんどり」教会と
いう名前について、人に相談したことも許可を得ようとしたこともない。 人の考え、思いも入れ
ていない。 ただ小さな群れで祈りに祈った結果、主から与えられた名前である。 ちなみに、
「レムナント」とは、「残りの者」という意味である。 

「残りの者」というのはイザヤ書10:20〜23に預言的なことばとして書かれている。 実際、歴史
上、北イスラエルは紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダは紀元前587年にバビロニア
に滅ぼされた。 しかし、それぞれの時、「残りの者」(生き残った者)たちがいた。 終わりの日
にも「残りの者」たちが、悔い改めて主に立ち返り、主に真実をもって頼る、ということである。 
また「めんどり」は、主が人々を御自身の下に来させようとされたご自身の姿を、めんどりを用
いて示された。 世界や日本に次々起きている災害や困難などを見ても、この世は明らかにサ
タンが支配している。(ヨハネ福12:31、14:30) しかし、このような世界の現実のただ中であっ
ても、主は確かに生きておられ、ご自身の「残りの者」を集めようと働いておられる。 

なお更、我々クリスチャンは主の御前にへりくだり、主が言われることを行なっていきたいもの
である。 人間の思いや願望、考え、想像を後ろに置いて、主が望まれていること、主のみここ
ろを確実に知って従っていきたいものである。 そのためにも我々は 信仰の創始者であり、完
成者であるイエスから目を離さないで、聖霊の流れに乗り続けて、しっかり目標を目ざして一心
に走っていきたいものである。

★旧約聖書 イザヤ書10:20〜23
   その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を
   打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。
   残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
   たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立
   ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
   すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるか
   らだ。

★新約聖書 マタイによる福音書 23:37
   ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ
   者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めよう
   としたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。




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