めんどり通信/2011年5月1日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <神の領域というものがある> |
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★旧約聖書 伝道者の書 3:11 人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 ★旧約聖書 伝道者の書 11:5 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのよ うに、あなたはいっさいを行なわれる神のみわざを知らない。 ●ルカによる福音書16章に金持ちと貧乏人ラザロのことが書かれている。 その物語によって 人が死後、行くべきところのあることがわかる。 金持ちは日々の生活に困ることなく、遊んで この世を楽しんでいた。 一方、全身おできの貧乏人ラザロが、金持ちの門前で体を横たえて いた。 時々、犬もやってきて彼のおできをなめるという有り様だった。 この二人が死んだ。 ラザロは御使いたちによってアブラハム(=神)のふところに連れて行か れた。 そこは涙を流さなくてもよく、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、すべて安堵 できるところだった。(黙示録21:4) ところが、地上で楽しく暮らしていた金持ちは、ハデス(地 獄の意)で炎の中で苦しんでいた。 二人の間には大きな溝があって行き来できなかった。 金持ちと貧乏人ラザロは、たとえとしてみるとき、金持ちとは能力的に何でもできる、神に頼ら なくても、行ないにも富んでいるというような人々のことを言う。 貧乏人とは、幼子に通じるとこ ろがあり、自分ひとりでは進むこともできず、親(=主)に頼らなければ何もできないというよう な人々のことであろうと思われる。 いずれにしても死後、人には行くべきところが確かにあることをこの箇所から知ることが出来 る。 中間というものはなく、「天国か地獄」ということであろう。 死後、人が行くべきところとし てキリスト教会で言われて来たことである。 死後のことは、我々生きている者にとって未知の 世界のことである。 クリスチャンは聖書が全能の神、万物を造られた神が、人を用いて書か せた神のことばであると信じている。 だから、聖書から死後の行き先、行き方を知ろうとす る。 また主も求める者には教えてくださる。 また、神の御心が、ひとりも滅びることがなく、す べての人が救われることを望んでおられるので、福音(良きおとずれ)を伝える者を起こさせ、 人々に伝えさせる。(Tテモテ2:4、Uペテロ3:9、Tペテロ2:9、ローマ10:15) しかし、クリスチャンであっても、神のみわざ、御心、御思い、神ご自身のすべてを知ることは 出来ない。 人が知ってもよい部分と知ることが許されていない神の領域があると思われる。 聖書の重要な一つのテーマ「救い」においてさえ、神の領域というのがあるのではないだろう か。 どのようであれば天の御国に入れるのか、入れないのか・・聖書から教えられる。 た だ、現代までに知らされていることが、すべてではないようにも思われる。 救われるため、基本的には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救わ れます。(使徒 16:31)」「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者 の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」である。 そ して天の御国に入るためには「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に はいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。( マタイ 7:21 )」である。 筆者が20年ほど前、伝道していたとき、よく質問された内容がある。 「福音を聞かずして亡く なった人たち、福音を聞いても理解も判断も決断もできない幼い子どもたち、流産した子ども たちはどうなるのか?」と。 当時、牧師から、「基本は主イエス・キリストを信じることである が、そのような子どもたちについては、みな天の御国へ行っている。」と教えられていたので、 そのように答えた。 しかし、福音を聞かずに亡くなった方々のことについては、神はご自身を自然の中で現してお られ(ローマ1:20)、人には良心があるから、何らかの形で神を知ることは出来るはずだか ら、・・・しかし、様々なケースもあるから・・・、死後どうなるのか、それは神にしか分からないと ころがある。」などと答えていた記憶がある。 ともすると逃げの体勢とも言われた。 確かにそ うだったかもしれない。 自分の中ではっきりしていなかったからだ。 ただその後、主からの様々な経験、体験による訓練、試練を通ってきた今、以前に比べるとも う少し明確に「基本は変わらないが、主の取り扱いに様々なケースがあり・・・、死後どうなるの か、それは神にしか分からない部分がある。 神の領域というものがある。」と答えられる。 逃げではなく、本当にそう思う。 我々は、主が示された道を歩み、祈り求めていくうちに、神の 領域だったと思われることも一つ一つ開かれ、教えられてくることがある。 それには決して、 人の考え、願望、推測、想像は入っていないし、もし入っていたなら、それはもはや神の示しで はない。 そして、それでも まだまだ神の領域というのがあると思われる。 どこまでが神の領域で あって、どこまでが人が知ることを許されているのか、という境目はなかなか難しく、わからない 場合が多いが、確かに、神の領域というのはある。 その部分については、我々は祈りつつ、 確実に教えられるまで待つ必要があろう。 決して人の願望、想像、推測を入れてはいけな い。 人のものを入れることは神の御前に高ぶることになる。 確かに天国と地獄はある。 しかし、簡潔に言うなら、結果は神のみぞ知る、である。 あくまで も基本は変わることはないが、過程だけで決め付けられないところがある。 神はその人の心 の奥を見られている。 どんでん返しは大いにあり得る。 福音や警告のことばを聞いて、聞い た者全員が、その神のことばを受け入れることを主は望んでおられる。 しかし、そのとき、受 け入れることができなくても、その人の体の命が尽きるまでに、個々にその人に応じて警告が 与えられることもあり得る。 そして悔い改める人もいれば、関知しない人もいるだろう。 一人 一人、天国へ行ったか地獄へ行ったかを、正確に知っておられるのは神である。 これも神の 領域かもしれない。 いずれにしても我々は 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで、しっか り目標を目ざして一心に走っていきたいものである。(ヘブル12:2) そのため、日々、主と主 のことばの御前にへりくだること、絶えず主の御心を知って祈っていくことをして、聖霊の流れ に乗り続けていきたいものである。 ★旧約聖書 詩篇 92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 |
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