めんどり通信/2011年4月10日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <肉をそのままにしているなら信仰さえ世俗化される危険性あり> |
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★新約聖書 第一ヨハネの手紙 2:15 世も世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人の うちに御父を愛する愛はありません。 ★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:16 、17 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう なことはありません。 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからで す。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことを することができないのです。 ●旧約聖書に登場してくるイスラエルの三代目王ソロモンは、クリスチャンでなくともよく知る人 物であろう。 彼はイスラエル王国を確立し、栄華の極みをもたらし、イスラエルを黄金期に導 いた。 ソロモンは主のための黄金の神殿を建設しただけでなく、世界各地との貿易によって 世界の富が彼のもとに集積してきた。 彼の権勢と評判は全世界的に響き渡った。 そのよう にできたのは神から与えられた知恵と英知による。(T列王記3:12) 当初、ソロモンの主に対する信仰と従順は父ダビデと同じであった。 「あなたに何を与えよう か。願え。(T列王記3:5)」と神が仰せられたとき、ソロモンは、自分のために長寿を求めず、 自分のために富を求めず、自分の敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴え を聞き分ける判断力を求めたので、神は彼が願わなかったもの、富と誉れを与えられた。 ソロモンは、外交関係を良くするために、エジプト王パロと契約を結び、パロの娘をめとった。 当時外国の女性と結婚することは、その国の偶像崇拝の影響を強く受ける危険性があるの で、基本的には禁じられていたことではある。 また、当時はまだ、主の名のための宮が建て られていなかったということはあったが、ソロモンは「高き所」でいけにえをささげていた。 この「高き所」は古くから礼拝の場所であり、その起源はカナン人が異教の神にいけにえをさ さげるときに、高き所で行なっていたことである。(士師記) レビ記17章によると幕屋の祭壇以 外の所でいけにえをささげることは禁じられており、申命記12:1〜5では、異邦の民による礼拝 所は破壊し、神が「ご自分の住まいとして御名を置く」場所へ行くことを求められていた。 このように、王に即位した当初、ソロモンは人間的弱さやいろいろ問題があり、不完全の状態 ではあったが、それでも主を愛し従っていた。 また主もソロモンに現われてくださり、ご自分の 恵みを施してくださった。 ところが、ソロモンはその栄華と権勢の確立と共に妥協を許し、徐々に世俗化した。 異教の 女との結婚は、「その妻たちが彼の心を転じた。(T列王記11:3)」とあるように、ソロモンが偶 像礼拝に対して 霊的な純粋さを失わさせた。 挙句の果てオリーブ山に神が忌み嫌われた 偶像モレクのために神殿の建造を許した。(レビ記20章、T列王記11:7) イスラエル王国は 徐々に堕落の一途をたどることになった。 そして彼の死後、王国は北王国(イスラエル)と南 王国(ユダ)に分裂した。 確かに神はソロモンに「知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心(T列王記4:29)」を与えら れた。 しかし、ソロモンは神から与えられたものに自分の思いと考え、すなわち肉を混入させ ていたと思われる。 肉の思いや考え、感情をそのままにしておくと、神のことばは薄れてくる。 神は「わたしのおきてと定めとを守るなら・・・、あなたの王国の王座をイスラエルの上に永遠に 確立しよう。」と語られたが、その神のことばは、当初からあった彼の肉(生まれながらの人間 の性質)が、徐々に思い、考え、感情などを世俗化し、神からの思い、知恵はこれらに、覆わ れてしまったようである。 肉は世を好む。 世に反応する。 ソロモンは異教の女たち、また聖絶されるべき先住民で あったヘテ人の女とも結婚した。 700人の妻と300人の妾をもったが、世では国の強さを示 す。 神から与えられた「知恵」や「信仰」さえ世俗に染まったかのようになっていった。 いやソ ロモンが自ら世俗に染めていったと言えよう。 主は二度も彼に現われ、ソロモンに警告したが、世が浸透し世俗化した彼の心は動かなかっ た。 ソロモンには、主への愛と献身が、このようにしてなくなっていった。 人の内に世が入っ て来る入り口、足場は、肉(人の生まれついた性質)である。 しかし、意識せずとも我々の内 に「世」が入ってくる可能性はある。 人は、クリスチャンであっても「世」で生活している。 クリ スチャンだけでなく未信者とも交際する。 世のものを用いる。 「世」を完全に排除することな どできない。(Tコリント7:31) こうして世の道徳、世の常識など世のものが次々、入ってくる。 無意識の場合もあれば、良い ことなら意識して取り入れる場合もあるかもしれない。 すると「主と主のことばが基準である」 と口では言っていても世が基準になる危険性はある。 そして肉が強くなり霊は弱くなる。 「世 (世のもの)」は、その人をまことの神から引き離す、キリストに背を向けさせる。 霊が弱くなっ たら、いとも簡単にクリスチャンの心は主から逸らされていく。 なにしろこの世の君は強力な サタンなのである。 だからクリスチャンが「世と分離」することはやはり大切なことである。 この世の考え方、この 世の価値観、この世のやり方など、一線を引くことは確かに重要である。 ただ、肉が切り取ら れる、自我が砕かれる、というようなことがなければ、「世と分離」が、表面だけの行動になる 可能性がある。 この方がある意味、厄介である。 表面だけの行動で判断してしまい、心深く に染み込んでいる「世」を見逃す恐れがあるからだ。 聖書を読むとソロモンの場合は、表面的にも明確に「世と分離」ということを行なっていなかっ たようである。 また彼は肉が切り取られた、自我が砕かれたという体験、苦難、試練はなかっ たように見受けられる。 いずれにしてもソロモンの肉は世と世のものを好んで考え、思いの中 に取り入れたために、主に従い通すことが出来なかった。 このようにして見るとき、「世と分離」することが大切であり、真底からの「世と分離」のために は、肉が切り取られる、自我が砕かれるということが重要であると思われる。 主は肉を切り取 るとき、自我を砕くとき、試練、苦難を与えることがある。 そのために聖霊が働いてくださって 痛みがともなっても「世」を混入させないように作り変えてくださることは幸いである。 また肉が切り取られたという経験をしたとしても、それで完全に肉がなくなったわけではない。 我々はまだまだ完全な者となっていない。 途上の者である。 あのパウロさえ晩年に「私 は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、 追求しているのです。(ピリピ3:12)」と言っている。 我々はまだまだ肉が切り取られる余地は 大いにあると考えられる。 絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、神に依り頼んでいき たいものである。 また、新しい聖霊の川の流れに乗り続け、聖霊の導きに身を任せたいもの である。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 8:6、7 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 というのは、肉の思いは 神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従でき ないのです。 |
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