めんどり通信/2011年3月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <信仰生活の中でたとえ大きな失敗をしても、神は心底からの深い悔い改めを見ておられる> |
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★新約聖書 第二コリント人への手紙 7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世 の悲しみは死をもたらします。 ★新約聖書 第一ペテロの手紙 4:12、13 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何 か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみ にあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときに も、喜びおどる者となるためです。 ●旧約聖書のヨブ記に登場してくるヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっており、裕 福で正直者だった。 そのヨブは神に試された。 試しのためにヨブに臨んだ苦難は直接、神 が試されたというより、神の許可を得て、サタンから出たものである。 ヨブはあっという間に財 産を失い、十人の子どもたち全員を失った。 全身には悪性の腫物(しゅもつ)ができ痛みとか ゆさで苦しんだ。 妻からは「神をのろって死になさい。」と言われる始末。 それでもヨブは「主 は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)」と神に愚痴をこぼさず、罪を 犯すようなことを口にしなかった。 ところが、3人の友が来て、彼らから、ヨブは罪を犯したから苦難にあうのだ、と非難されると自 分は潔白だと弁明し論争が続いた。 また何故、苦しみの連続なのかと神へ疑問を抱いた。 しかし主がヨブに直接、叱責も含め語りかけられると、心底からの深い悔い改めをした。 ヨブ は「 今、この目で神を見た」(ヨブ記42:5)と言った。 ヨブの信仰は更に大きな飛躍を遂げた。 ダビデの場合、イスラエルの王として預言者サムエルから油注がれてから、サウルに命を狙 われても、とにかく主の御前にへりくだった。 実際の戦いだけでなく、信仰の戦いをも戦い抜 いてイスラエルの王として国を治めていた。 しかし、あるときアモン人の町を攻略する戦いに 行かず、夕暮れに床から起き上がるという安穏とした生活の中で、バテ・シェバの裸を見た。 肉の欲が出てきた。 そして姦淫とバテ・シェバの夫ウリヤを家来に殺させるという殺人を犯し た。 預言者ナタンによって罪を指摘されると、心底からの深い悔い改めをした。 その後のダ ビデの信仰はやはり更に大きな飛躍を遂げた。 だから後々まで「神に愛された者」と言えば、 ダビデの名がすぐに挙がる。 アブラハムの場合、神がアブラム(アブラハム)75歳の時、「彼を大いなる国民の父にする」と 約束された。 二人にとって子供が生まれることなど実際的には不可能な年齢に達していた が、待った。 しかし待てども待てども子どもは与えられなかった。 それでサライ(サラ)の助 言に従い、若いエジプト人奴隷ハガルによって子を産んだ。 アブラムが86歳の時だった。 子 はイシュマエルと名づけられ、後にアラブ人の祖先となった。 そのときのアブラムの信仰は10 年間は待てたという信仰である。 しかしそれ以上は待てず、自分たちの知恵と方法を用いる ことになった。 それからアブラムが99歳の時、再び神が現れ、約束を再確認された。 そして、アブラハムが 100歳、サラ90歳のとき約束通り、子どもが与えられ、イサクと名づけられた。 肉の力を使っ たアブラムが心底からの深い悔い改めをしたとは書かれていないが、神のわざでイサクが産 まれるまでの間は、ある意味心底からの深い悔い改めの期間になったと思われる。 神は13 年間アブラムに現れなかったが、アブラハムは99歳のとき、割礼を受けている。 すなわち肉 (生まれつきのもの)が切り取られたということである。 名前もアブラムからアブラハム(多くの 人の父)と変えられた。 そしてアブラハムは、神が「イサクを全焼の供え物として捧げなさい」 と神からの大きな試しのことばに従った。 アブラハムの信仰はやはり更に大きな飛躍を遂げ た。 そして「信仰の父」と呼ばれるようになった。 主に従っていくとき、我々は御心を示される。 約束のことばを与えられる。 その実現を多く の場合、試練、困難、試しの中で待つことになる。 主はご自身が愛する者を必ず、懲らしめ、 訓練され、試されるからだ。(ヘブル12:6、T歴代史29:17、エレミヤ書11:20、12:3) しかし、 時には、あまりにも時間がかかるような気がして、あまりにも苦しくて、何とか主に協力してそ の時が早まらないかという誘惑を受ける。 時には、もう嫌だと駄々をこねることもある。 そう して、様々な形で失敗することがある。 それでも心底からの深い悔い改めを神は見ておられる。 ヨブやダビデやアブラハムの生き様 から様々なことを学べるが、その中の一つに、心底からの深い悔い改めをするなら、その後の 歩みが神との交わりがより深いものとなるということ、信仰も霊も大きく成長し、すばらしい神の 祝福と恵みが神の栄光を帯びる形で増し加えて与えられるということである。 心底からの深 い悔い改めがなされたかどうかがわかるのは、悔い改めた後、見事に変わっていることであ る。 心底からの深い悔い改めは、(古い)自分が終わっているからである。(ローマ6:6) 自 己主張をしなくなる。 主のみこころを優先するようになる。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、十字架のもとに自分を置き、主の御心を 知って祈っていくこと、神に依り頼むことをしていきたいものである。 主は生きておられる。 ★新約聖書 マタイによる福音書 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自 分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 |
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