めんどり通信/2011年2月27日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <身動きできないほどの聖霊の流れの中に乗る> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 7:37、38 ・・・イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに 来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底 から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 ★旧約聖書 エゼキエル書 47:1〜5 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ 出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流 れていた。 ・・・その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私に その水を渡らせると、それは足首まであった。 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその 水を渡らせると、水はひざに達した。 彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水 は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさ は増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。 ●人の体は渇きを覚えて水を飲む。 神は人の体を、水を欲するように造られた。 同様に神 は人を、神に対して渇きがあるように造られた。 この渇きを満たすことができるのは、主が与 えてくださる永遠の命の水だけである。(ヨハネ福4:14) ただ、多くの人は何故、自分が渇 いているのか?何に渇いているのか?ということに気づいていない場合が多い。 筆者もキリ ストに出会う前は、そのような中の一人であった。 だから、他のもの、物質や社会生活の中 で高い地位につくことなどを目指した。 ところが渇きは満たされず、挙げ句の果て、知らな かったとはいえ、神が忌み嫌われる偶像礼拝に熱心な者になってしまった。 そんな者が、ただただ一方的な神のあわれみで救われた。 初めて教会に連れて行っても らったとき、牧師が何を話されたのか、一言も覚えていない。 ただとめどなく涙が出て止ま らなかったことだけは、はっきり覚えている。 聖霊が著者の心の奥に触れてくださったのだ。 教会で牧師訓練を受けているとき、なかなか牧師の思う通りにならなかったようで、牧師から は「一つ一つベニーヒンのもの(性質など)と替えてもらうようなつもりで、『聖霊様おはようござ います』の本を何度も何度も読みなさい。」と言われた。 その通り従ったのだが、一向に変わ らなかった。 何度も本に鉛筆で線を引きながら読んでも心の中に入って来なかった。 そんなある日、信者さんたちと交わりをしていたとき、著者が教会から借りて乗っていた車から オイルが流れ出ていると、知らされ駐車場に駆けつけた。 数日前に車の点検をして異常がな く、前日には教会の一人の牧師が乗っても異常がなかった。 見事に車からオイルが大量に 流れ出ていた。 オイルの中に車があるという光景だった。 側にいた信者さんたちは、「聖霊 がこの人から去って行った」と言いたげな表情をして引いていた。 無理もない。 牧師から、 ベニーヒンを見習え、彼のようになれ、と言われても、なれなくて落ち込むばかりで牧師からも 役立たずと見放され気味だったのだから。 その時のことはずっと気になっていて主に尋ね祈っていた。 15年も前のことである。 そして 最近、その時、聖霊が去って行ったのではなく、その時すでに聖霊の流れに乗らせていただい ていたことを教えられた。 その聖霊の流れに乗らせていただいていたからこそ、今日がある ものと痛感し、主に感謝した。 当時その後、その教会からは追い出された。 しかしそのよう な出来事は、著者の自我が砕かれ、肉が切り取られることにおいて大いに益になった。 さて、水が足首やひざまでなら、自分の意思(意志)で歩くことが出来る。 腰まででもまだ自分 の足が使える。 しかし足が着かず、泳ぐしかないほどの水かさになれば、流れに身を任せる だけとなる。 そこまで水かさが増せば、流れに逆らうことは流れが強ければなお更、身を沈 めることになる。 エゼキエル書47章のこの水は、明らかに聖霊を表す。 聖霊が注がれること、聖霊の満たしが最初から足が着かないほどになることもあるのかもしれ ないが、通常は足首からひざまで、そして腰・・・とだんだんに増えていくものである。 霊の成 長も満たしもだんだんである。 川の水の中にいても、足首、ひざまでなら十分、自分の足で歩 ける。 流れに逆らうのも流れに乗っていくのも自由に選べる。 腰までのときでも何とか自分 の足で自分の意志を貫こうと思えば貫ける。 このような時は、いわば神からの訓練、試練、試しがあるときではないだろうか。 訓練、試 練、試しを受けて流れから出ることも流れに乗ることも結局、その人が選んでいくことである。 自分の思いを捨て、自分の願い、感情、考えよりも主の御心を優先するかどうかは、その人が 選ぶことである。 泳げるほどになったとき、生ける水、聖霊の流れに身を任せるなら、神がご 計画されているところに到達するであろう。 旧約のヤコブやダビデ、新約のペテロやパウロやその他、聖書に登場してくる主が喜ばれた 人たちは皆、神からの訓練、試練、試しを受けている。 そして彼らは、地上では旅人であり寄 留者であることを自覚して、聖霊の川の水に流されるまま、身を任せた。 天の故郷にあこが れてこの地上の道を歩んだ。 彼らにとって天国は単なる作り話ではなかった。 彼らは皆、聖 霊の流れに乗り続けていた。 しかしキリストの弟子であってもその聖霊の川の流れから出た 者も多い。(ヨハネ福6:66) 聖霊の川の流れに乗ること、また乗り続けることは、いかに重要かを思い知ることが大切であ る。 そうすることは、一人一人がその源泉である神ご自身と直接つながることである。 身動 きできないほどの聖霊の流れの中で進んでいけるようになりたいものである。 日々絶えず、 主イエス・キリストから目を離さず、主と主のことばの御前にへりくだること、絶えず主の御心を 知って祈っていくことをしていきたいものである。 ★旧約聖書 イザヤ書 25:1 主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは 遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。 |
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