めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年2月6日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<身体の病と心の病>


★旧約聖書 イザヤ書 53:3,4,5
   彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけ
   るほどさ    げすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負
   い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦し
   められたのだと。 しかし、彼は、私た ちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎
   のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私
   たちはいやされた。

●現代はストレスの多い時代であるといわれている。 それだけ、精神を病み、通院、入院す
る人も多いと聞く。 石川信義著「心病める人たち」(岩波新書90年出版)によれば、90年当時
の日本の精神病による入院者数は約35万人(同書212ページ)で、このうち鍵がかけられている
閉鎖病棟に入院している人は60%強(21万人以上)で、人口1万人当たり約17人という。 その
数はイギリスの14倍だそうだが、これは、日本の精神病院は精神病になった人を治療すること
よりも、社会にとって都合の悪い人を「近代医学」の名の下に閉じ込めておく「監獄」としての役
割を担っていることにあるという。 

フランスをはじめ先進国では、精神病は多くの場合、地域社会の中で治療する方が治療効果
が高いということが分かってから、患者を地域社会で治療するという方向性がはっきりと打ち
出されたという。 また患者の人権が尊重されるようになってきたという。 日本の精神医療制
度の遅れについては、イギリスのクラーク博士が、1968年に世界保険機構(WHO)の顧問という
資格で日本の精神医療状況を視察した際、「日本の精神病院は必要以上に閉鎖・拘禁状態
にあり、治療活動の多くは不活発である。患者を社会に戻す活動や、そのための地域施設が
極端に乏しい。そういう状況のもとで、入院患者の多くが放置され、入院が長期化しつつある」
と報告書で指摘しているという。(インターネットより)

さて、いずれにしても日本の通院者の数(推計204万人)や病院へは行っていないが在宅精神
障害者の数など合計すれば相当な数の人が苦しんでいると思われる。 福音書にイエスがこ
の地上に来られているとき、大ぜいの病人、足なえ、不具者、盲人、おしの人、悪霊につかれ
た人、そのほかたくさんの人をいやされた
ことが記されている。 その中で、身体の病の人に
関して、主イエスは「わたしに何をしてほしいのか」とか「あなたの信仰があなたを直した」「あな
たがたの信仰のとおりになれ」
などと、その人の意思や信仰を確認されている場面が多い。

しかし、悪霊につかれた人に関しては、その人自身の意思や信仰を求めておらず、連れてき
た人の意思や信仰に応えたりという場面もあるが、全く意思も信仰も関係なく、悪霊を追い出
され、いやされている場面がある。 

聖書を見るなら病には、単なる病の場合と悪霊が関わっている場合の病があるようだ。
(マタイ9:33,12:22,17:15、マルコ9:17,22) また、聖書は「病」は身体の病を「病」として書かれている
ように思われる。 そのようにして見るとき、今日、多くの人たちが苦しんでいる精神的な病、
心の病のいやしは、悪霊につかれた人のいやしの中に書かれているのではないかと考えられ
る。 病ではなく、ただの悪霊付きの場合もあるとは思うが。

精神の病にもいろいろ種類があって病名によっては症状も違うだろうが、意欲減退、憂うつ
感、悲観的、絶望的思い、人を避ける、死にたいと思う、考えがまとまらないなどということをよ
く聞く。 そのような思いが湧き出てくると聞いたことがある。 それらの思いは性格や精神の
弱さの現れではなくて、病気の症状なのだ。 だから、クリスチャンなら信仰を持て、祈れ、主
に仕えているうちにいやされてくるから奉仕せよ、・・・などというのは病人にとって過酷なこと
である。 

著者は精神的な病を患っている人たちとの交わりを持ったことがあるが、病の症状がきついと
きには、クリスチャンであっても次々と悲観的な思いが出てくるという。 病状が落ち着いてい
るときには祈れるが、症状が出てきた時には信仰を保つことなどできず、むしろ、「こんなに
祈っているのに、こんなに長い間、主のことばだけに従い、世の医療さえ介入させていないの
に、まだ苦しまなければならないのか。こんな思いを思いたくないのに、死の思いさえ出て来
る。」と言っておられた。 

だから精神的な病の人の場合、周りの者が絶えず主のところに連れて行くことが大切であろう
と思われる。 つまり絶えず、周りの人が祈るということである。 その人の病の実情を知って
祈ることが重要であると思った。 もちろん症状が軽い場合は自分で求めることもできるだろう
が、それでももっと深くから求めよ、信仰を強く持てなどと強要することは酷である。 

福音書を見ると悪霊につかれた人の誰一人としてイエスからその人の意思や信仰を確認され
ていない。 イエスはその人たちの苦しみをよくご存知だった。 だからその人の意思確認や
信仰確認などを求められなかった。 ただ、かわいそうにといやされた。 

いやしは祈ったらすぐにいやされた、というふうになればいいのだが、現実はそう簡単でない場
合が多い。 祈り求め続ける忍耐がいる。 祈りつつ医者や薬などの助けを得ながら、時間が
かかる場合も多い。 クリスチャンの中には、主からこの世の医療も何ものも介入させず、主
の直接のいやしを求め続けて待て、と導きを得ている者もいると聞いたことがある。

とにかく聖書の基本的なことからするならば、どのような病でもいやされることは主の御心であ
る。 即座にいやされるか、若干、時間がかかるか、多くの時間を要するのかは神の御手の
中、神の領域である。 また、全く主のいやしのみに頼って待つか、医療や薬などの助けを受
けながら、主がいやしてくださるのを待つか、一人ひとりの導きは違う。 祈りのうちに示される
導きに従うことを主が望まれる。

ただ、真実なことは、神はあわれみ深い方であり、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、い
つまでも変ることがない」
方であるから、主を信じて祈り続け、また示された聖霊の導きに従っ
ていくうちに、神の時が来て、病がいやされるという奇蹟が起きるのではないだろうか。

よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてい
てくださ
っているのだから、我々も主のところへ一人で行けない人を連れて行ってあげたいも
のである。(ローマ8:34) つまり祈っていきたいものである。 主がとりなす者のいないのに驚
かれ
ないように、主の喜ばれること、すなわち自分のためにも人のためにも祈っていきたいも
のである。 いよいよ、へりくだって主と主のことばに従っていきたいものである。 聖霊の流れ
に乗っていきたいものである。

★新約聖書   ヘブル人への手紙 4:15,16
       ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受
      けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 私たちの大祭司は、私た
       ちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
      私たちと同じように、試みに会われたのです。

★旧約聖書 詩篇 147:3 主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。




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