めんどり通信/2011年1月30日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <神は人の心の奥を見られている> |
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★旧約聖書 エレミヤ書 12:3 主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。 ★旧約聖書 歴代誌 第二 16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている 人々に御力をあらわしてくださるのです。・・ ★旧約聖書 第一サムエル記 2:30 ・・・・わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。 ●旧約時代、神は祭司を任命した。 モーセの兄アロンとその子らである。 その後、アロンと その息子たちおよびアロンの家系の長子が贖いの儀式を行うために、子から子への世襲制で 祭司となった。(民数記3:3) 旧約聖書の第一サムエル記に祭司エリと息子たちのことが記されている。 エリの2人の息子 も祭司であったが、「エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、・・祭司の定めについて もそうであった(Tサムエル2:12,13)」と書かれている。 エリは息子たちに警告した言葉が書 かれているが、それはエリが非常に年をとっていたときのことである。(Tサムエル2:23~25) 一説にはエリが90歳のときであったという。 当然、息子たちといっても決して若い年ではなそ うである。 それまでにもエリは息子たちに忠告はしてきたであろうが、息子たちはエリのいうこ とは聞かなかった。 聞かないというより聞かせることが出来なかった、聞かせなかったという 方が適切かもしれない。 息子たちを長年にわたって半ば放置していたようである。 エリの下には、預言者となるサムエルがいた。 その少年サムエルはますます成長し、主に も、人にも愛された。 そのころ、神の人がエリのところに来て、エリの家から祭司としての権 威も子孫も取り去られるという宣告をした。 そのしるしとして二人の息子は同じ日に死ぬと宣 言した。 その最大の理由として、エリが神より息子たちを尊んだことを挙げている。(Tサム エル2:29) その宣告によるエリの応答、息子たちに対する行動は書かれていない。 その後、サムエルに 主はエリの家の行く末、すなわち神の人が宣告した同じことを語られた。 エリはサムエルから 内容を聞くと「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」と言ったことが記 されている。(Tサムエル3:18) このエリの言葉は真の信仰の姿であるとの解釈も多いようだが、筆者はそのようには受け取 れなかった。 その後、サムエルは成長して、主はサムエルに語られ、サムエルを通して民に 告げたことはみな実現した。 そのことによりイスラエル人はサムエルが主の預言者と認めた ようである。(Tサムエル4:1) その頃イスラエルがペリシテ人と戦うことになった。 しかし、このときの戦いには神は介入され ていなかった。 戦いが始まるとイスラエル人はペリシテ人に打ち負かされ、約4千人が打たれ た。 それまでのイスラエルの戦いは、神が介入しているときには勝利してきたが、神が介入さ れていないときには敗走してきた。 イスラエルの民が敗走して戻ってきたとき、長老たちは話し合ってシロの町から「主の契約の 箱」を陣営に運び込ませた。 「エリのふたりの息子、ホフニとピネハスも、神の契約の箱と いっしょにそこに来た」と書かれている。 「主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエル は大歓声をあげた。それで地はどよめいた」という。 イスラエル人にとって「契約の箱=神の 臨在=神は味方=勝利」と思い込んだようである。 イスラエル人の間には安堵の空気が漂っ たと思われる。 一方、「ペリシテ人は、「神が陣営に来た。」と言って、恐れた。」 そして、皮肉なことにペリシテ 人は「さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。」と余計、自分たちを守ることに必死に なった。 結果、イスラエルは打ち負かされ、生き残った兵は自分たちの天幕まで逃げ帰っ た。 そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエル兵3万人が倒れた。 その上「契約の 箱」はペリシテ人に奪われてしまい、エリのふたりの息子、祭司ホフニとピネハスも死んだ。 この戦いは、明らかに神はイスラエルと共におられなかった。 この知らせを聞いたエリはショックのあまり、席からあおむけに落ち、首を折って死んだ。 98 歳だった。 このとき臨月だったピネハスの妻も精神的ショックのためか、陣痛が起こりその場 で出産。 出産直後に彼女も死んだようだ。 こうして、主が語られていた通り、エリの家に 対する裁きが実現した。 さて、祭司であるエリは、律法をよく知っていたはずだが、神よりも息子たちの言うことを聞い て彼らの方を重んじた。 エリは90歳の頃(?)、神の人から主からのことばを聞いた後でも、 エリ自身、真に神に悔い改めたとは思われない。 悔い改めとはそれまでの態度なりを神に 悔いて、心、行動、態度を改めることである。 しかし、ペリシテ人との戦いのとき、息子たちは まだ祭司として君臨していた。 モーセの律法では故意に親に逆らう子は死罪だった。(申命記21:18~21) 親は子の死を見届 けなければならなかった。 エリは結局、最後まで重罪について、息子たちを正そうとする毅然 とした行動を起こさなかった。 そればかりか、祭司を続けさせるという管理祭司としての務め にも甘かったようだ。 エリは、神が介入していないイスラエルとペリシテとの戦いのとき、「道のそばに設けた席にす わって、見張っていた。(Tサムエル4:13)」 神の箱のことを気づかっていたからである、と書 かれているが、一見すると、老祭司がけなげに務めを行なっているように見える。 しかし、こ れは決して祭司として、へりくだった行ないではない。 エリは表面的には、一生懸命、祭司として主に仕えてきたと思われる。 ただ、エリの心の奥 底は、変わっていない部分があったように見受けられる。 息子たちに対する親としてのあり方 においても、管理する立場の祭司の務めにおいても、大きな変化は見られない。 エリには砕 かれていない自我、折られなければならない自我、切り取られなければならない肉がずっと 残っていたのではないだろうか。 人は誰でも最初から心の奥底から主が喜ばれることをできるわけではない。 主の御心を知 るためにも主の御心を行なうためにも、時間がかかり、また様々な経験(訓練や試練)などを 通ることの方が多い。 そのようにして自我が砕かれ、肉が切り取られて、自己主張はキリスト 最優先となっていく。 ただ、ある程度、主の御心ができるようになってきたり、主の御心(聖 書)がわかってくると、表面だけで御言葉に従う、御心を行なうということが、どうもあり得るよう である。 しかし、主が望まれているのは、真に主に従う者であり、主の基準でみことばを理解して、聖霊 の導きによってみことばを行なうことである。(ローマ8:5,14,ガラテヤ5:25) すなわち、へりく だって神と共に歩む者である。(旧約 ミカ書6:8) そのためにも、とにかく日々の生活において、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の 御心を知るために聖書を読み、祈っていくこと、そして主と主のことばの御前にへりくだり、聖 霊の流れに乗っていきたいものである。 聖霊の流れに乗っているなら、主がその人に応じて 自我を砕き、肉を切り取って心の奥から主の喜ばれる思いが出て来る者に変えてくださるであ ろう。 日々、へりくだって神とともに歩んでいけるようになりたいものである。 ★旧約聖書(口語訳) 詩篇 26:2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。 ★旧約聖書 詩篇 145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。 ★旧約聖書 詩篇 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神 は、心と思いを調べられます。 |
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