めんどり通信/2011年1月9日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <語られた神のことばに返り、神の御前にへりくだれ!> |
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★旧約聖書 イザヤ書 55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来 ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 ★旧約聖書 詩篇 111:5 主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。 ★新約聖書 ルカによる福音書 1:20 ・・・・・私のことばは、その時が来れば実現します。 ●神は一旦語られたことばは、基本的には変えられない。 ただ、そのことばを成就されるま での過程においては、変更されることがあるようだ。 しかし、結果を見たときには結局、語ら れたことば通りになっているようである。 旧約聖書のヨナ書やアモス書に、アッシリヤの首都ニネベについて書かれている。 当時、 アッシリヤの多くの罪悪により、神はアッシリヤの中心、首都ニネベを滅ぼすことを計画され た。 しかし、本来、神の御心は「悪者の死を喜」ばれない。 「悪者でも、自分の犯したすべて の罪から立ち返り、その態度を悔い改めて、生きることを」望まれる。(エゼキエル18:21~23) 神はヨナをニネベへ警告のことば「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。(ヨナ書3:4)」を伝 えさせるため遣わした。 するとニネベの王と大臣たちや身分の高い者から低い者まですべて の人々は、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを 悔い改めた。 それで神はその時、ニネベの人々を滅ぼさなかった。 ところが、その後、間もなくして彼らは元の行ない、すなわち残虐で傲慢なことを再開した。 そ して、ヨナの宣教により国をあげて悔い改め、救われた都市は、それから約150年経った預言 者ナホムの時代には、以前よりもさらに邪悪になっていた。 結果、神は最初のご計画通りに ニネベを滅ぼされた。 アッシリヤの滅びは、歴史的にはバビロニヤとメディヤによるものだ が、真の主権は神にあった。 神は全能であり全権を持っておられる。 だから神はご自身が何をされるのか、すなわち、 我々には知りえない神のご計画を持っておられる。 もし、ニネベの人々がずっと神の御前に へりくだりを維持していたなら、神のご性質からするならば、ニネベを滅ぼされることはなかっ たであろう。 ニネベが滅ぼされることも滅ぼされないこともいずれかになったとしても、神の ご計画の中にあったことである。 神は、ニネベのすべてをご存知だったと思われる。 しかし、神が最終的にはニネベの悪行によってニネベを滅ぼされたことは、神のご計画の中に あったというそのことは、我々が、結果を見たときに、はじめてわかるものである。 結果を見 て、本当の神のご計画を知ることができる、ということが多い。 我々は、神がなさろうとするこ とを前もって、すべて知ることはできないのである。 神が一旦語られたことば、示された夢は、後で振り返ってみた時に、はじめてわかるということ がほとんどである。 神はご自身が語られたことばを成就されるために、ご自身のご計画を 持っておられる。 しかし我々人は、神がなさることのすべてをあらかじめ知ることは難しい。 確かに、終末になれば 今まで隠されていたこと、覆いがかかっていた覆いが取り除かれ て、明らかにされる事柄が出てくると思われる。 しかし、一人一人の歩む道においての具体 的なことは、その人にすべて最初から明らかにされるということはない。 だから、もし、神が直接なり、人を通してなり、聖書を通してなり・・一旦、神が語られたことばが あるならば、そのことばを真剣に受け止めて、心の内に留まり続けさせることはとても重要であ る。 そのことばに絶えず、返ることが必要である。 冒頭のみことばイザヤ書 55:11の「わた しの口から出るわたしのことば」の「ことば(ヘブル後ではダーバール)」はへブル語の特徴とし て、出来事とか事柄を同時に意味しているらしい。 「ことば」というのは、本来その語った内容 から切り離せないのであり、語ったことばは必ず成就に導かれるという理解が暗黙のうちに流 れているという。 一旦、神は語られた「ことば」は必ず、成就される、実行される。 だから、一旦、語られた神の ことばに我々は絶えず、注目すべきである。 たとえ、神が語られたことばの途中経過の中 で、神は「ことば」を変えられたのではないかと思われるような実情になったとしても、新たに語 られた「ことば」がない限り、最初に語られた「ことば」に返るべきである。 また、ニネベのようにたとえ最初、悪いことばが語られたとしてもあわれみ深い神だから、悔い 改めてへりくだったならば、赦してくださる。 ただ、やはり最初に語られたことばに返り、油断 をしないことである。 人の「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」 からだ。(エレミヤ書17:9) 悔い改めたことは、主の喜ばれる道を歩んでいくためにスタートを きったにすぎない。 だから、語られたことばを想い、主に従い、常に神の御前に、ことばの前 にへりくだることが重要である。 我々がすべきことは、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主と主のことばの御前 にへりくだること、絶えず主の御心を知って祈っていくこと、聖霊の流れに乗ってくことである。 ★旧約聖書 詩篇 89:34 わたしは、わたしの契約を破らない。くちびるから出たことを、わたしは変えない。 ★旧約聖書 詩篇33:10、11 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。 主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。 |
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