めんどり聖書研究会


めんどり通信/2011年1月2日。明けましておめでとうございます! ハレルヤ! 
<今年もうしろのものを忘れ、目標を目ざして一心に進んで行こう!>


★新約聖書 ピリピ人への手紙 3:12~3:14
   私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようと
   して、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくだ
      さったのです。
      兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励ん
      でいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリス
      ト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に
    走っているのです。

★新約聖書 第一テモテの手紙 6:12
       信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。・・・・

●昨年は、各地で猛暑、異常気象、宮崎県で家畜の口蹄疫が拡大、・・・などなど、相変わら
ず景気のいい話しはなかった。 今年は多くの経済学者、政治家・・・などが予想しているが、
やはり景気のいい話しが聞こえてこないようだ。 しかし、いつまでも経済がどうの国がどうのと
考えることに集中して、肝心の一人一人の実生活まで景気が低迷ということにならないようにし
たいものである。

さて、パウロが語った言葉からみると、彼は悪いこと、良いこと、いずれにしても過去、古きを
捨てて、天の御国に入る、永遠の命を獲得する、という目標を目指して、一心にキリストに焦点
を合わせて走ったということである。 それを主が良しとされ、主は我々にも薦めておられる。

クリスチャンであるということは、天の御国に入る、永遠の命を獲得する者ということである。 
具体的に言うなら、クリスチャンになる、クリスチャンであるということは、まことの神、永遠のい
のち
であるイエス・キリストを知ること(体感)、理解する(悟る)ことである。(Tヨハネ5:20)
イエス・キリストを知る、理解する
ために聖書を読む、祈る、御ことばを行なう、御ことばに従う、
兄弟姉妹たちと交わりをする(愛し合う)など、どれもみな大切なことである。 

しかし、そのようにしているにも関わらず、どうも神から見てクリスチャンと呼ばれない人たちが
いる。 パリサイ人、律法学者は聖書をよく読んでいた。 祈りもしていたと思われる。 主に喜
ばれる、喜ばれないは別として、ともかく御ことばを行なっていた。 今日で言うなら聖書学者、
教会の指導者たちであろう。 また、福音書に登場してくる良き青年も御ことばを守っていたと
言っている。 今日もこのような善、神の御心を行なっているクリスチャンも多い。

しかし、主は言われる。 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはい
るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」 
ここで「主よ、主よ。」と言っているのは、主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をた
くさん行なったクリスチャン、すなわち教会の指導者や伝道者、働き人たちである。(マタイ7:2
2) 
彼らは明らかに主の御心を行なっていた。 人から見たら、誰でも彼らのことを「クリスチャ
ン」と呼ぶであろう。 神と人の見解は全く違うものである。

パウロは晩年の時、ローマの獄中で、このピリピ人への手紙を書いた。 パウロは、「すでに得
たのでもなく、すでに完全にされているのでも
ない」。 だから「捕らえようとして、追求している」
と言っている。 そして追求することができるのは、「キリスト・イエスが私を捕えてくださった」か
らだと明言している。 パウロほどのな人が、それも晩年にこのように言っている。 我々はな
お更、「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもない」、とへりくだり、自分の熱心
からというより、主が選んでくださっているから追求できるのだ、と主を畏れ、ますます、へりく
だりつつ求めていくべきであろう。 

うしろのものを忘れ」とは、過去に犯した罪や過失、失敗の類である。 後になって、あの時こ
うしておけば良かった、ああしておけば良かった、などと悔やむ心が生じることが多い。 「後悔
先に立たず」ということわざがある。 我々は、後ろにとらわれるのではなく、前向きに生きるべ
きである。 良いことにしろ悪いことにしろ、いつまでも過去に固執していたのでは一向に進め
ない。

ただ、自分がどんなところから救われたか、どんな穴にいたかは決して忘れてはならない。 
進むことを妨げる罪悪感、良心の呵責、過去の体制など古きは忘れるべきであるが。 どんな
ところに居たかを見ることは、自分が愚かな者、弱い者、この世の取るに足りない者、無に等
しいもの
であったことを知ることになるからである。(Tコリント1:27,28) 

いずれにしても今年、たとえ世がますます悪くなったとしても、我々は、信仰の創始者であり、
完成者であり、死者の中からよみがえった主イエス・キリストを、いつも思い、目を留め 、仰ぎ
見て走っていきたいものである。(ヘブル12:2、Uテモテ2:8) この生き方こそが神が我々に
望まれることであり、また我々のストレスを跳ね返し、問題が解決され、心が平安に保てること
に繋がるからである。

今年、日々、祈り、我々は神の御前で素直になり、何が起きようとも神に信頼して、正しい判
断、つまり主の御心を選び、神の恵みと守りの中で安らかに祝福された1年を過ごしていきた
いものである。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈
ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 主は生きておられる。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 4:16
      ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は
      日々新たにされています。

★旧約聖書  イザヤ書 26:3
       志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているから
      です。



めんどり聖書研究会