めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年12月19日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<霊が成長することは大切!(霊の見方とともに霊的感覚も)>


★新約聖書 第二コリント人への手紙 3:18
   私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄
   光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主
   の働きによるのです。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 4:12
   神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分
   かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

●聖書によると「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」なくなって
いる。(ローマ3:23) 神との交わりを絶たれ、すべての人が地獄への道を辿る惨めな罪人と
なってしまったことを告げている。 聖書はそのような罪人を「肉」とも表現している。 肉とは、
ひと言で言うなら、「罪に支配された生まれつきの性質」である。 人(罪人)は、常々何かを思
い、感じ、何かを(意志で)決断している。 それらの基準は、自分である。 そこには神の存在
がない。 良心はあっても自分を基準にしているので、神のみこころに沿った働きをなさない。 

だからイエスは言われた。 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。(ヨハ
ネ福3:3)」 
また、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(ヨ
ハネ福3:6)」「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。(ヨハネ福6:63 )」

も言われた。 主イエス・キリストを信じて、霊が再生され、神との交わりが復活される。 

主イエス・キリストを信じて救われた者は、その救いがより確かなものとなるためにキリストを
真に知ることが重要である。(Uペテロ1:1^11) そしてキリストを知ることは、神の霊によらな
ければ理解することができない。(Tコリント2:14) パウロも「私たちは今後、人間的な尺度で
人を知ろうとはしない。かつては人間的な尺度でキリストを知っていたとしても、今はもうそのよ
うな知り方はしない。(Uコリント5:16)」
と言っている。

さて、主イエス・キリストを信じた者は、霊的に成長する必要がある。 神は霊である。 そして
イエス・キリストは我々と同じからだをもってこの地上に来てくださったが、十字架で死なれ、3
日目に復活された。 そして主を信じる者に聖霊を注ぐために昇天された。 本来、人は神の
かたちにかたどって創造された霊的な存在である。 だから成長するためには霊の食物が必
要である。

神の御ことばは霊的な食物であるから、それを真に食べて(受け入れて)、キリストを知り、神
のみこころを知る必要がある。(マタイ4:4) 聖書は霊の食物というとき、乳という表現もされて
いる。(Tペテロ2書、ヘブル5章) 我々は、霊的に成長していくと、人間的な尺度ではなく、キ
リストの尺度でものごとを見ることができるようになってくる。 霊的な見方はクリスチャンにとっ
て重要である。 それとともに、霊的感覚というのも必要である。 

旧約聖書ヨシュア記9章。 ギブオン人たちは、ヨシュアたちイスラエル人がエリコとアイに対し
て神の奇跡行なったことを聞いて恐れを覚え、イスラエルと同盟を結んで助かろうという意図を
もって、変装してやってきた。 「あなたの神の名、主の名を聞いて、遠くから来ました」と言うギ
ブオン人に、ヨシュアは変だと思いながらも、結局、言葉巧みなギブオン人のことばに騙され
て、彼らと和を講じ、彼らを生かしてやるとの盟約を結んだ。 主はかつてモーセを通して、「あ
なたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならな
い。(申7:2)」
と言われていた。 

主の指示を仰がず、自分勝手に「主の御名によって」誓ったことは神への背きの罪である。 
その結果、ずっと後に、思わぬ形で、刈り取ることになった。(Uサムエル記21章) このときヨ
シュアが、ギブオン人が変装してきても、言葉巧みに話してきても霊的感覚で、少しでも嘘を感
じたならいつものように主の指示を仰いだかもしれない。 霊的感覚は、人間の直感とか第五
感というものではない。

霊的な見方や霊的感覚は、必ず聖書のみことばに沿っているものであり、訓練が必要であ
る。 イエスも弟子たちの信仰を立てあげ、霊的なことを悟らせ、霊的な見方ができるようにと
訓練をされた。 弟子たちは実際、キリストによって様々な体験をして、信仰が堅くなり、霊的
感覚も正しく持ち行使できるようになったと見受けられる。 霊的食物(主のことば)と実際的な
訓練によって霊的成長がなされていった。 

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:14)」の「子ども」はギリシャ
語の原語によると幼児を意味しているのではなく、成長した子ども、または神の子のことを意
味しているという。 霊的に成長すればするほど、より正しく聖霊に従うことができるようにな
る。 霊的な成長というとき、霊的な見方、霊的感覚も成長することが必要である。 

これからの時代は、ますますサタンさえ光の御使いに変装する時代である。(Uコリント11:14)
 伝道における成功、または霊の賜物の働きを見たとしても、騙される可能性はある。 だか
ら何事においても霊的見方、霊的感覚が重要になってくる。 いろいろな事柄、出来事、状況
を霊的見方、霊的感覚で判断していくことが必要であり、重要である。 

神は、心の底からへりくだり、神を恐れるものに目を留めてくださる。 そしてそのような者に主
は働いてくださって、霊的感覚、霊的見方を与えてくださり、成長させてくださる。 聖別してくだ
さる。 いよいよ、へりくだって主と主のことばに従っていきたいものである。 聖霊の流れに
乗っていきたいものである。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:16、5:25
   私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよう
   なことはありません。
   もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

★新約聖書 ヘブル人への手紙 12:2
   信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自
   分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座
   の右に着座されました。



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