めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年12月5日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<信仰は目に見えなくとも、キリストのみ業は見える>


★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1、3
   信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
   信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見え
       るものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙 10:17
   したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

●キリスト教の信仰というとき、「見えないキリストを信じる」。 これが基本である。 聖書全体
がひとことで言えば「キリスト」について書かれているが、特にヘブル人への手紙は、このイエ
ス・キリストを知っていくために、イエス・キリストがいかにすぐれているかが書かれている。 

望んでいる事がら」は自分が望んでいることではなく、神が望まれていることであり、「保証し」
は「実体」とも訳せるということやヘブル人への手紙全体から、信仰とは、肉からの解釈や願い
など一切混入せず、何の疑問も不信も持たず、主が語られたことば、また主が願っておられる
ことばを、納得してそのまま受け入れ、確信し、キリストに期待することである、と言える。 そう
するなら、信仰によって、主が語られることば<わたしがあなたがたに話したことばは、霊であ
り、命である(ヨハネ福6:63)
>、すなわち霊的事柄が実体化されるのを見、また体験すること
となる。 

「見えないキリストを信じる」ことについては、イエスはトマスに言われた。「あなたはわたしを見
たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ福20:29)」
 トマスは12弟子の中
の一人で、病のいやしや悪霊にとりつかれた子の解放、死人の蘇生などイエスがなさった数々
の奇蹟を目の前で見てきた者だった。 それでも、自分の目で復活したイエスを見なければ納
得いかなかった。 

イエスがキリスト(救い主)として立たれた3年半、行なわれたこと、奇蹟と呼ばれるようなことを
「いちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい(ヨハネ福21:25)」
聖書には書かれている。 そのような主のみわざを、弟子たちや多くの群集は目の前で見てき
たり、実際、奇蹟を体験した者も多い。 しかし群集はみな「イエスを十字架につけよ」と寝返っ
た。 弟子の多くも主から離れて行った。(ヨハネ福 6:66) そういう意味では、奇跡やしるしや
不思議という事がらが信仰を持ったり、信仰を強くする絶対的要因にはなり得ないようだ。 中
には、いやしなど奇蹟をきっかけに、またそれを材料として信仰が明確になるとか堅くなるとか
いう人もいるとは思うが。

ともかく人は奇蹟やしるしや不思議という事がらに案外弱いものである。 だから、「聖霊の第
三の波」など多くの奇蹟を売り物にしている様々な運動、教えなどを、なかなか見破れないの
かもしれない。 「聖霊(悪霊)の第三の波」のように、いやしや奇蹟や不思議な神のみわざを
売り物にすることは、危険であるばかりか、神を冒涜することになる。 しかし、主が一旦、こと
ばを語られたなら、必ずその通りになる。 そして、そのことばの内容が、時にはいやしの内容
であったり、悪霊の追い出しだったりすることがある。

この世の科学、医学、文化、常識・・・など様々なこの世の方法、この世の理論を用いられず、
主がご自身の方法で、ご自身が語られた「ことば」を成就されるということがある。 

病のいやしなどについて四福音書で記されている共通することは、ただ「イエスのところに来
た」ということである。 イエスはご自身のところに純粋に求めてきた者を一人も拒否されること
なく、すべていやされた。 「イエスのところに行った」ということは今日で言うならば、「祈ってキ
リストのところに行く」ということであろう。

もちろん、病のいやしについて、主が見ておられる「病」とは、その人が主の働きをする、主に
仕えていくのに妨げるものと言える。 「病、病気」は主に仕えていくには大きな妨げとなる。 
聖書の基本的なことからするならば、病がいやされることは主の御心である。

ただ、我々が思っている一般的な病、病気が妨げになっていない場合もあり得る。 パウロも
三浦綾子さんも3重苦だったヘレン・ケラーも病を持っていた。 各々、いやしについて神に
祈った。 しかし、いやされなかったが、彼らにとって「病」は、主に仕えていくにおいて何ら妨
げになっていない。 むしろ益になっている。 ヘレン・ケラーなどは「そのことによって私は自
分自身を、神の仕事を、自分の神を見いだしたからである。」と言っている。

それでも、やはり多くの病人にとっては、いやしが必要である。 医学が発達した現代、いやし
に関して主のみわざでいやされた、ということが少なくなったかもしれないが、いずれにしてもキ
リストのみによっていやされる「いやし」は、やはり奇蹟と言われるであろう。 「奇蹟や不思議」
を強調することは、明らかに間違っているが、やはり主が語られた「ことば」の内容によって
は、キリストのみでいやされたり、事が行なわれたり・・・という奇蹟が現れることがある。

福音書に出て来る盲人は、イエスに憐れみを叫び、見えるようになることを求めて、いやされ
た。 それは肉体の目が見えるようになっただけでなく、救い主イエス・キリストを見ることがで
きるようになった。 実際、いやされることも大切だが、もっと大切なことは、見えないキリストを
見る、すなわち真底、知ることである。

今日、我々は肉眼ではキリストを見ることはできない。 しかし、真に主に祈り求めていくなら、
キリストのみ業は見ることができる。 そして、それによってキリストを見ることができる。 求め
ていく中で、主がことばを与えてくださることがある。 主が語ってくださったなら、その通りにな
るが、そのことば通りになるまで、本当に主に信頼しているか、信仰が試されたり、忍耐が与え
られたりと、訓練を受ける。 そうして信仰が強くなっていく。 ある意味、信仰とは、「主イエス・
キリストに信頼して、主の御声を聞いていくこと」と言える。 

我々は、主の語りかけを聞き、そのことばを主が成し遂げられることを、体験しながら いよい
よ深く神を知っていきたいものである。 神のみわざを見て、神の栄光をほめたたえていきた
いものである。

★新約聖書  詩篇107:24
      彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。

★新約聖書 詩篇33:4
   まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。



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