めんどり通信/2010年11月21日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ! <キリストにあっては偶然ということはない> |
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★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 11:33^36 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。 その道は、何と測り知 りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主 のご計画にあずかったのですか。 ・・・ というのは、すべてのことが、神から発し、神に よって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アー メン。 ●日常生活で「偶然」ということばをよく耳にする。 思わぬところで友人に会って「偶然だね」、 なかなか出来なかったことが、ふとした拍子にできると「偶然できた」とか・・・。 しかし、キリス トにあっては「偶然」はない。 聖書によるなら、神の目から見て「偶然」は何一つとしてない。 神は人を創造された。 イエス・キリストを真に信じた者は、世界の基が置かれる前から選ば れて、髪の毛の数さえ、また、心の思いも神はすべてご存知である。(エペソ1:4、マタイ10: 30、詩篇139:2他) 神はご計画を持っておられる。 イエス・キリストを真に信じた者にもご計 画を持っておられる。 またその目的のために創造された。 キリスト教には「神の摂理」ということばがある。 「摂理」とは、国語辞典(大辞泉)によると「キ リスト教で、創造主である神の、宇宙と歴史に対する永遠の計画・配慮のこと。神はこれによっ て被造物をそれぞれの目標に導く。」とある。 神の導きを「摂理」と呼ぶ。 「摂理」はラテン語から来た英語で "providence"というようだ。 「前もって見る」という意味であ るという。 「神は、前もって世界も人も見ておられ、神の計画の中へと導かれている」、という ことである。 聖書の中には、この神の摂理があらゆるところに示されている。 またこの摂理 の中で生きた人のことも多く書かれている。 旧約聖書のルツ記のモアブ人(異邦人)ルツとイ スラエル人ボアズの結婚物語、創世記のヨセフの物語、創世記のアブラハムの子イサクの嫁 さん探し、・・・等など。 . ルツの場合。 イスラエル人の夫エリメレク、妻ナオミ夫婦が、飢饉のために2人の息子を連れ て、モアブに移り住んでいた。 そこで夫は死んだ。 2人の息子は、それぞれモアブの女性と 結婚。 彼女たちは結婚前には異教徒であったと思われる。 その後、2人の息子も死んだ。 ナオミは帰郷することになり、2人の嫁に実家へ帰るように勧めた。 しかし1人は帰ったが、兄 息子の嫁ルツは、真の神から離れた異邦人だったが、姑と共にイスラエルへ行った。 姑ナオ ミの故郷へやってきたルツは、落ち穂拾いで生活しようとして出かけた畑が、はからずもエリメ レクの一族に属するボアズの畑のうちであった。 「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、 はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。ちょうどその時、ボアズはベ ツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。『主があなたがたとともにおられますように。』 彼らは、『主があなたを祝福されますように。』と答えた。 」(ルツ記2:3〜4)。 このボアズとの出会いが、異邦人ルツもイスラエル人ナオミも共に神の祝福の中に入れられる ことになった。 (キリストの誕生は聖霊によるものであるから、この場合人間的には)主イエ ス・キリストはこの異邦の女ルツから誕生した。 ルツはキリストのたとえであるボアズに嫁ぐこ とにより、真実とあわれみといつくしみ、愛と正義、しかも裕福に与(あずか)ることになった。 「はからずも」という言葉は、原語では「偶然」という意味があるという。 人間的に見れば偶然 であり、たまたまであるようなこの出会いも、神によって確かに導かれていたものであった。 神の御手は、ルツの出来事一つ一つの背後にあって着実に介入されていた。 そして神のご 計画の実現をもたらした。 ルツが神の大いなる恵みに与ったのは、夫が死んで、姑ナオミから今後のことを考えて実家に 帰るよう勧められたとき、「あなたの神は私の神です(ルツ記1:16)」という信仰告白をしたこと と、ルツが落穂を拾った畑がボアズの所有地であったことは「はからずも」であったことである。 しかし一番の決め手は、これらの背後にある神の摂理があったことである。 ここに神の大い なる恵み、特に霊的祝福を得る秘訣がある。 「偶然」と思われることであっても神が介入されれば、それはその人にとって単なる「偶然」では 終わらない。 神のご計画の実現のための一つとなる。 我々の信仰生活の中で、我々に代 わって神が主権を持たれたならば、神の摂理によって神の御業を見たり、体験したりすること ができる。 そのためには、どのような出来事、どのような時にも神に介入していただき、主権 を神にゆだねることが重要である。 神の摂理の中で生きることができるなら、我々は人生においてのどのような失敗や逆境をも恐 れることはない。 それらを「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」からだ。 そして見 かけは波瀾であっても心の奥底では神の御旨の中で真の安息を得ることができる。 「信じた 私たちは安息にはいるのです(ヘブル4:3)」と書かれている通りである。 そして逆境の中で忍 耐し、神を仰ぎ、約束の素晴らしい御業を現わしてくださる神の時を待つことができる。 日々 のどんな些細な出来事の背後にも、神の摂理があることを認める時、人生の見方が変わって くる。 人生に絶望するということはない。 希望をもって生きることができる。 真にイエス・キリストを信じた我々は、神の摂理の中に生かされている者として、物事の背後に ある神の御心に目を留めていきたいものである。 そして大いなる神の恵みと祝福に与ってい きたいものである。 日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつ も祈ること、神に依り頼み、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 主は生きておられる。 神の摂理はある。 ★旧約聖書 U列王記19:25(イザヤ書37:26) あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計 画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石く れの山としたのだ。 ★旧約聖書 イザヤ書 25:1 主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは 遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。 |
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