めんどり通信/2010年11月14日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<主の望まれる時に主のみこころを行なう> |
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★新約聖書 マタイによる福音書 24:45,46 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるよう な忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。 ★新約聖書 マタイによる福音書 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自 分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 ●イエスがエルサレムに入場され、神の都の中でも、さらに中心である宮に入られた。 そし て、その後、12弟子と一緒にベタニヤに出て行かれた。 翌日、エルサレムに向かう途中、「イ エスは空腹を覚えられた。 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはし ないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのな る季節ではなかったからである。(マルコ11:12,13)」 イエスは、その木に向かって「今後、いつ までも、だれもおまえの実を食べることのないように。」とのろわれた、と書かれている。 「いちじく」は、エレミヤ書8:13、ホセア書9:10から、イスラエルの神の民をあらわす。 神の民 であるユダヤ人と言えば、神から律法(出エジプト記20章)を与えられた者たちである。 神は イスラエル人(ユダヤ人)に律法を守るならば神の民として祝福すると約束された。 しかし、旧 約時代、誰一人として律法を順守できる者はいなかった。 律法を行なうことによっては、実を ならせることはできなかったのである。 そして、イエス・キリストが来られた。 人類に「キリストの血による新しい契約」が与えられた。 パウロは「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による(ローマ3:2 8)」「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められる(ローマ10:4)」と 言っている。 葉が茂っているということは、木からの栄養は運ばれているが、実をならせるほ どの栄養は届いてなかったようである。 現代、新約のいちじくである、クリスチャンにも同じことが言えるのではないだろうか。 葉を茂 らせる、つまり「行ない」だけでは実を結ばせることはできない。 新約のクリスチャン、カトリッ クは明らかに旧約の神の民と同じ「行ない」主義に陥っていると聞いたことがあるが、プロテス タントのクリスチャンたちの「行ない」とは、聖書のことばに従い、昔から行なわれてきたこと、 すなわち伝道し、集会を持ち、礼拝を執り行ってきたり、礼拝に集ったりなどである。 これら の「行ない」が悪いわけではない。 むしろ良い。 神の御心である。 また、「いちじくのなる季節ではなかった」とあるが、ここの「季節」は、「主人から、その家のしも べたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深い(賢い)しも べとは、いったいだれでしょうか。(マタイ24:45)」の食事「時」と同じ「season」という英語が使わ れている。 ちなみに「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何に よって塩けを取り戻せましょう。(マルコ9:50)」の「何によって塩けを取り戻せましょう。=how will you season it?」にも「season」という英語が使われている。 これらのことから見ると、神の御心を「行なう」においても、主の望まれる「時」がある、というこ とである。 食事時以外の時間に食事を与えても、それは主人の言いつけをきちんと守ってい るとは言えない。 主の望まれる「時」に、主の御心を「行なう」ことによって、初めて実がなると いうことであろう。 注目すべきことは、実のなっていない いちじくの木は、「今後、いつまでも、だれもおまえの実 を食べることのないように。(マルコ11:14)」と、主にのろわれ枯れてしまったということである。 「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる(ヨハネ福15:2)」とあり、「良い実を結ばない木 は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。(マタイ7:19)」とも書かれている。 「主が望まれる時に、主の御心を行なう」、このことが重要である。 「主が望まれる時に、主の 御心を行な」わなければ、実を結ばず、葉だけが茂る恐れがある。 聖書に確かに、「みことば を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(Uテモテ4:2)」「全世界に行っ て、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と書かれている。 しかし、やはり、「主の望まれる時」があるように思われる。 すなわち、キリストにあって、みこ とばを伝え、福音を伝え、聖霊の導きによって、集会をし、礼拝を執り行い、礼拝に集い、キリ ストにあって主のみことばを行なう、ことが大切である。 そこには人(肉)の考え、計画、思い、 感情、方法が入ってはならない。 全く聖霊の導きに従うということは、自分から出て来るもの すべて(考え、思いなど)を、すなわち自分自身を捨てるということである。 そうして初めて実 をつけることができると思われる。 もちろん、クリスチャンはだれでも最初から、的確に聖霊の導きに従って、みこころを行なうこ とができるとは限らない。 むしろ失敗することが多いかもしれない。 しかし、主の御前にへり くだっていくなら、様々な失敗さえ、実をつけるための益にしてくださる。 終末といわれている現代、「主が望まれる時」に、「主のみこころを行って」いきたいものであ る。 決して聖霊を悲しませることのないようにしたいものだ。 そのためにも日々、絶えず、主 イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていき たいものだ。 聖霊の流れに乗る、すなわちキリストについていきたいものである。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わた しに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。 ★旧約聖書 伝道者の書 3:1 何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 |
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