めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年11月7日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!<霊の影響>


★新約聖書 第一ペテロ の手紙 5:8
   身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのよう
       に、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。

★旧約聖書 詩篇 15:1,2
   主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むので   
   しょうか。 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。

★旧約聖書 箴言 12::22
      偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。

●世の中、人間の知恵では、とうてい理解できないことが多くある。 明らかに「霊」の影響とし
か考えられない事柄が多くある。 しかしそれらの多くを「不思議」と片付ける。 だから”霊界
云々”などと人の空想が飛び交い、挙句にはその空想話しが教理となり、宗教となる、という
ケースも多い。 確かに肉眼で見て、肉声を聞いて、体感してという「地上の世界」があり、目
では見えない「霊の世界」がある。

聖書は本来、霊のことを語っている。 霊には、神の聖霊と悪の霊がある。 簡単に言えば、
悪魔(サタン)は悪霊のリーダー、悪霊とは悪魔に仕える霊たちで・る。 聖書もこの区別をし
て用いているところが多い。 (悪の)霊の目的は人を滅ぼしたり、つまずかせたりすることであ
る。聖書のことばは「霊的なもの(ローマ 7:14)」である。 だから霊的なもの、霊的なこと、聖書
のことばは、聖霊によらなければ悟れないのである。(Tコリント2:14) 人はこの地上で目に見
えない(悪の)霊の影響を受けている。 クリスチャンでも同様である。 クリスチャンも悪霊に
やられるときがある。 (悪の)霊の影響を受ける時がある。 その人の生まれ持った性質(肉)
や清められていない部分が使われてということもあるが、神の御心を行なおうとする者に対し
ての攻撃、神の計画の進行を阻むための攻撃ということもある。 

ただ、霊の世界のことは、我々はすべてわかるというものではない。 案外、わからないことが
多いかもしれない。 そのような中で、主が我々にみことばと体験をもって知らせてくださったこ
とは、へりくだって受け取っていくべきである。 また、わからないことは、無理にわかろうとする
のではなく、祈って主にゆだねておくことが大切である。 主が必要と思われたなら、主の時が
来たら、わからせてくださる。 知る必要がないと主が判断されたら、知らされることはない。 
我々は各々、分をわきまえ、へりくだることが肝心である。

さて、聖書の中で(悪の)霊の影響を受けた人が登場してくる。 旧約時代、イスラエルの初代
王サウルの場合。 彼は王に立てられた最初はよかった。 しかし、だんだん自分の見栄や欲
望を第一にして神に従わず、主の霊はサウルから離れ、悪い霊が彼をおびえさせるようになっ
た。 しかし、それでも自分を第一にした。 サウルはダビデの命を狙い続けたが、反対にダビ
デに2度も命を助けられた。 声をあげて泣いても、またすぐに同じことを繰り返した。 ダビデ
を殺そうとした。(1サムエル24章、26章)

サウルの問題は、サウルの本音には、真の悔い改めの心がなかったということである。 恥も
外聞も欲望も見栄も捨てて、本当に変わらなければならないという心がなかったということであ
る。 自分の見栄や欲望のために嘘をつき、それを主張した。 いわば悪霊と結託していた。 
「嘘」、これはサタンの武器であり、サタンの性質をあらわす。 それに続く悪霊どもも同じであ
る。(ヨハネ福8:44 ) 人は、口で良いことを言っても、その人にとって「いざっ」というときにその
人の本音が出るものである。 結局、サウルの心の奥にあったものは、神の御心と反対のも
のであり、それを処分する気は、サウルにはなかったということである。 

神は人の意思を重要視される。 人が嫌がっているのに、人に対して無理やり何かをなさると
いうことはない。 福音書を見るとイエスは病のいやしに関しても、その人が本当にいやされた
いのかを確認しておられる場面が多い。 ただ、悪霊につかれた人に関しては、親や身内の
者など他の人々がイエスのところに連れてきている。 しかし、墓場で住みついていた悪霊に
つかれていた人の場合は、イエスはこの人の意思を確認することなく、悪霊に「この人から出
て行け。」と命じられた。(マルコ5章、ルカ8章) 

イエスは人の心の奥を見られる。 正気になったこの人は、イエスのお供をしたいと願い出た
ことを見ると、全く悪霊に取りつかれていても心の奥底では、本当に解放されたい、変わりた
い、救われたいという願い、意思があったことが伺える。 

サウルは自分の欲望や肉からのものを離す気がなく、いわば自分の心の底にある思いと悪霊
の思いが結託していた。 福音書の悪霊に取りつかれた人は、悪霊に取りつかれたような自
分の欲望や肉を離す気があった可能性がある。 「肉」とは、罪によって損なわれてしまった人
間の生まれつきの性質である。 

いずれにしても、主は人の心の奥を見られている。 真実を望まれている。 うそ偽りのない願
い、思いを見ておられる。 我々は真実な気持ちで、神の御前に出て真実な願いを述べていき
たいものである。 心の奥の思い、願いが神の喜ばれる真実なものであるならば、主イエス・キ
リストは、天からのもの、霊的な恵みを与えてくださるであろう。 霊的な恵みを受けた者は、霊
的体験をしていくこととなり、揺るがされても「いざっ」という時が来ても、キリストに対する純粋
な信仰は萎えることがなく、むしろ信仰が堅くなっていく。 

日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り
頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、聖霊の流れに
乗っていきたいものである。 主は生きておられる。

★新約聖書  エペソ人への手紙 6:11,12
      悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさ
     い。  私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主、力、この暗やみの世界の支配
      者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

★新約聖書    ヨハネによる福音書   6:63 
       人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話し
       た言葉は霊であり、また命である。



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