めんどり通信/2010年10月31日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<キリストとしっかりつながって日々の生活を送る> |
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★新約聖書(口語訳) ローマ人への手紙
12:2
あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造り かえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるか を、わきまえ知るべきである。 ★新約聖書(口語訳) ヨハネによる福音書 15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝が ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あな たがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 ●マルコ4章、ルカ8章、マタイ13章に記されている主が語られた4つの種のたとえの箇所を見 ると主は人の心の奥をよくご存知で、みことばを語られる前から区分されていることがわかる。 イエスから、4つの種のたとえ話を聞いた大ぜいの群集は、陸地に立っていた。湖のほとりに
座っておられたイエスは湖の上の舟に乗り移られ、そこに腰をおろされた。 このたとえ話しが終わると、いつもつき従っている人たちが、12人(弟子)とともに、たとえのこ とを尋ねた。 イエスは、弟子たちに「あなたがたに、神の国の奥義を知ることは許されてい る」といわれ、陸地でたとえられる「世」にしっかり足をつけている群集のことについては、「ほ かの者には、たとえで話します。彼ら(群集)が見ていても見えず、聞いていても悟らないため です。(ルカ8:10)」と言われた。 群集であるならば、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦さ れることがない。(マルコ4:12)」 群集であるならば、たとえ神の奇蹟によるいやしやみわざを 体験したとしても、キリストから離れ、挙句の果てにはキリストを裏切る、キリストに反逆する可 能性がある。 また弟子なら絶対、キリストから離れないというわけでもない。 当時キリストの弟子と言われ ていた者たちが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその 人におる。(ヨハネ6:56)」とイエスが言われた直後、多くの弟子たちが離れ去って行った、と記 されている。 奥義を知ることを許されていても、それをはっきりと理解しても、それがその人の 日々の生活で実際とならなければ、いつでもつまずいてしまう可能性がある。 つまずいてもま
た、立ち上がって主のところに返って来られるなら良いのだが・・・。
14、5年前、幾つかのキリスト教会の聖会に出席したことがある。そこでは、聖書のみことばが 語られたり、賛美したり、キリストがどんなにすばらしいことをしてくださったかの証しを何人も の人たちが語っていた。 すばらしいことづくめのようだったが、著者は、ふと思った。 「証しを しているこの人たち、メッセージを語っているこの方々の日々の生活は本当のところはどうな のだろうか?」と。 礼拝も集会も聖会も、神が喜ばれるために行われる。 しかし、その時だけでなく、神が我々 に望んでおられるのは、日々、キリストと本当につながって生きている姿である。 主のために 奉仕している、主のために働いている、主のために聖会、集会をしているなど・・・、という外側 のことだけでは「神に喜ばれ、かつ全きことである」との判断ができ難い時代になったのかもし れない。 キリストとつながっていると思っていても、案外、自分では気づかない不純物があって、離れて しまっていた、ということがあり得る。 また不純物に気づいていても なかなか神の見方で見 えず、軽く捉えて浅い悔い改めなり、求めなりしかできていない場合もあり得る。 しかし、真剣 にキリストにつながっていたいと願い、絶えず、心を主イエス・キリストに向けて祈っていくなら、 必ず、主はその不純物を神の見方で見えるようにしてくださる。 罪、とが、自我、肉(生まれつ きの性質)などの不純物は、どれほど神が忌み嫌われているかを深いところでわかって悔い 改め、求めていくことは、神の喜ばれるように変えられていくためには重要である。 キリストとつながり続けるために、日々、絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前 にへりくだって祈っていきたいものである。 キリストとしっかりつながって日々の生活を送ってい くなら、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかをわきまえ
知ることができる。 キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいものであ
る。
★新約聖書 第二テモテの手紙 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キ リストを、いつも思っていなさい。 |
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