めんどり通信/2010年10月24日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<無くてならぬもの、キリストのことばに聞く耳を持て!> |
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★新約聖書 ルカによる福音書
10:41,42
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使って います。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはそ の良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 ★新約聖書 マルコによる福音書 4:23 ★新約聖書 黙示録13:9 聞く耳のある者は聞きなさい。 耳のある者は聞きなさい ●ルカによる福音書10章にマルタとマリヤの姉妹のことが書かれている。 イエスと弟子たち は、エルサレムへの旅の途中、エルサレムに近いベタニヤに来られた。 そして、マルタとマリ アの家に入られた。 そこでイエスは話し始められた。 妹のマリヤは他の弟子たちと一緒にイ エスの足元に座って、イエスが語られるみことばに聞き入っていた。 一方、姉のマルタは一行の食事の用意などのもてなしのため、忙しく立ち回って気が落ち着か なかった。 マルタは忙しさにいらいらし、妹マリヤに対する厳しい非難、不満を、あろうことか 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」とイ エスに向けた。 そして「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」とイエスに命じ るようなことまで言った。 マルタの予定、段取りなど、彼女の計画が思う通りにいかない苛立 ちに、忙しさで乱れた心が更に怒りに拍車をかけたようだ。 そして、心の乱れは、目の前にお られる主を見失わせていた。 「忙しい」という漢字は、「りっしんべん(心)」+「亡」からできている。 漢字で表されている通り、 神から目を離して忙しくしていると、本当に大事なこと、つまり神のことが見えなくなり、わから なくなる。 さて、イエスを喜んでお迎えしたのはマルタだった。 また弟のラザロが病気のときも、イエスが 来られたと聞いて迎えに行ったのはマルタだった。(ヨハネ福11:20) そのときマリヤは家です わっていた。 そのような違いは個性の違いであると思われる。 聖別される必要はあるが、
主は一人一人の個性を崩そうとはされない。 むしろ清められた個性を主は活かしてくださる。 しかし、一旦、主が「ことば」を語られたなら、どのような個性の持ち主であろうが、どのような 忙しさの中であろうが、主と主のことばに注目すべきである。 「人を生かすものは霊であっ て、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命であ る。(ヨハネ福6:63」と主は言われた。 また「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から 出る一つ一つの言で生きるものである(マタイ4:4)」とも言われた。 そのことをマリヤは悟っていたかのように、イエスの足元から動かなかった。 主の足元、すな わち、主の側近くで主の方を向いていたから、主のことばに聞き入ることができ、主のわずか な表情の動きさえも見えたであろう。 主のことばを正しく聞き、主の霊、聖霊の導きを正しく受けていくことは重要である。 そのため には、主のそばに座って、他のことば、視線など他のどんなことよりも、主が語られることばに 集中していたマリヤの姿勢を取ることが必要である。 「主の足元に座る」というのは、キリスト の弟子の姿勢である。 聖書の最後にある黙示録には何度も「耳のある者は聞きなさい」と書かれている。 「聞く耳の ある者は聞きなさい」とイエスも言われた。 ただ単に、音声でことばを聞く、というのではなく、 霊の耳で聞きなさい、ということである。 それも正しく主イエス・キリストに注目すること、座る、 つまりへりくだって聞くということ、心の奥に刻み込まれるように聞くということである。(Uテモテ 2:8、申命記11:18) またイエスはマルタを非難しておられない。 「マルタ、マルタ。」と名前を二度、呼ばれた。 聖 書の中で、「アブラハム、アブラハム」(創世記22:11)、「ヤコブよ、ヤコブよ」(創世記46:2)、 「モーセ、モーセ」(出エジプト3:4)。 「シモン、シモン。<ペテロのこと>」(ルカ22:31) 「サウ
ロ、サウロ<パウロのこと>」(使徒9:4)などが名前を二度、主から呼ばれている。 主はご自
分の選び出された者たちの名前を二度呼んで、その者たちにご自身を顕され、愛と慈しみを 示され、その者を働きに召してくださっている。 マルタに対しても主は二度、名前を呼ばれた。 マルタがイエスが来られたと聞くと、いつも喜 んで家に迎え入れるという良き行為を主は見てくださっている。 そしてそれは、表面上の行為 ではなくマルタの心からのものであることを主は、よくご存知だった。 イエスは、慈しみをもっ て名前を二度呼んでマルタにもてなし(=奉仕、主のための働き)とは何かを教えておられる。 今の世の中は忙しい。 何もかもがスピーディである。 しかし、たとえ自分では抜け出せない どうしようもできないほどの忙しさの渦の中にあっても、その忙しさの中から主に助けを求めて 叫ぶなら、主は必ず、主のことばを聞けるような状況にしてくださる。 何かをしながらでも、人 は心の中ででも主に叫ぶことはできる。 我々は我々の名前を呼んでくださるイエスの呼びかけに応答し、主の語られる声に(霊の)耳 を傾けていきたいものである。 そして、聖霊の導きに従ってまっすぐに歩んでいきたいと願 う。 主は「聞く耳のある者」の心に主のことばを刻み込んでくださる。 いつもキリストの足元に座り、聖霊の流れに乗って導かれるまま進んでいくことは、神を愛し、 隣人を愛するという「どうしても必要なこと」「無くてならぬもの」を選ぶことになるのではないだ ろうか。 すなわち、それはキリストのことば、キリストを選ぶことである。 日々絶えず、主イエ ス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって絶えず祈り、主の語られることばを聞いて いきたいものである。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 10:17 信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 So then faith comes by hearing, and hearing by the word of God. |
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