めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年10月10日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<みことばを言うは易し、行なうは難し>


★新約聖書 マタイによる福音書 7:21
       わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天にお
    られるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

★新約聖書 ヤコブの手紙 1:22
   みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけま
   せん。

●「みことばを行なう」ことは、主イエス・キリストを信じる者に対して、主が望まれていることで
ある。 しかし主が望まれる基準で「みことばを行なう」ことは、結構、難しい。 「みことばを行
う」ことは、一歩間違えば、自分の思い込みが入る可能性がある。 自分の思い込みと主の御
心とは、雲泥の差がある。 

律法学者やパリサイ人たちは、食事の前に水で手を洗うこととか、ただ単に人間的な習慣や
教えを律法につけ加えていたのであるが、自分たちは神の律法を常々、行っていると思ってい
た。 だから、イエスを十字架につけることは、神に仕えていると思い込んでいた。 我々クリス
チャンは、彼らほどではなくても、ともすれば、「みことばを行なう」ことを自分の観点、基準、解
釈で行なってしまう危険性がある。 

たとえば、愛について、主は「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあ
なたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』(ルカ10:27)」
と言
われている。 神を愛するということも難しいが、人を愛することも難しい。 主は、クリスチャン
が隣人を愛することについて、わかりやすいたとえ話「よきサマリヤ人の話(ルカ10:30〜37)」
で教えてくださった。   ある人が、エルサレムからエリコへ下る途中、強盗に襲われ、半死の
状態になって、道に倒れていた。 祭司とレビ人が、そこを通りかかったが、そのままにして、
反対側を通り過ぎて行った。 彼らは、当時宗教的指導者として尊敬を受けていた人たちで
あったが、自分たちも強盗に襲われるかもしれないと思ったのかもしれない。

ところが、後で来合わせたサマリヤ人が半死の人を見て、かわいそうにと思い近寄ってきた。 
倒れていたのはユダヤ人である。 ユダヤ人とサマリヤ人とは互いに激しい敵意を持ち、サマ
リヤ人は昔からユダヤ人に軽蔑されていた。 しかし、このサマリヤ人は、傷にオリーブ油とぶ
どう酒を注ぎ、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、自分がいる間は介抱し
てやった。 お金を払って、さらに費用がかかったら、帰りに支払うと宿屋の主人に約束し、出
発した、という話しである。 

旧約時代、イスラエルの民がエリコの町からバビロンへ捕囚されたが(U列王記25章)、この
強盗にあったユダヤ人は、エルサレムからエリコへ向かっていた。 エルサレムは、ダビデの
時以来、ユダ国の中心の町、すなわち、神のみ心である。 そこから離れてエリコへ行くこと
は、神から離れていくこと、また神から離れていることを表している。 

神から離れて行くから、また離れているから強盗に襲われる、すなわち立ち直れないほど傷
つき、病に倒され、、傷みにやつれ、孤独に悩まされるという強盗に襲われる、とも言えよう。 
そこを通りかかった先の2人は、ユダヤ教に関係することから見ると、半死の人は、間違った
キリスト教の教えという強盗にあって永遠の命もままならないクリスチャンであるとも言えよう。 

また、このサマリヤ人とは、自らの危険をも省みず、犠牲を払って世話をして下さる主ご自身
である。 主は、半死の状態の人、すなわち自分一人では起き上がることも助けを求めたくて
も叫ぶことすら出来ない者を見てかわいそうにと近寄ってくださる方である。 そして、傷にオ
リーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをしてくださる。 
すなわち聖霊を注いでくださり、聖霊で
覆ってくださる。 自分の家畜、すなわち聖霊に乗せてくださり、ご自身の教会(宿屋)へ連れて
行ってくださる。 そこでは主が介抱、すなわち、いやし養ってくださる。

宿屋の代金はすべて支払ってくださる。 主は、我々がいやされ、救われるために、十字架と
いう代価を支払ってくださった。 イエスはこのよきサマリヤ人のたとえ話をされた後、「あなた
も行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」
と言われた。

我々も永遠の命を失ったり失いかけている瀕死の状態の人たちを見たとき、キリストの心をい
ただき、かわいそうにと思って、とにかくオリーブ油とぶどう酒を注ぐ、すなわち、その人が聖霊
に触れられるよう、聖霊の流れに乗れるよう、キリストのからだの一器官として機能したいもの
である。

キリストの教会(宿屋)へ連れて行くというとき、今までの教会とは違う形かもしれないが、要す
るに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」と言われた主ご自身が
建てられたキリストの教会の中に連れて行く。 すなわち、キリストとしっかり結びつけることで
ある。

マザーテレサは、かわいそうにと多くの貧民や孤児、浮浪者たちの世話をした。 そのことはす
ばらしいことである。 しかし、彼女は、どの宗教からでも神に至る、神に受け入れられている
という多元主義をもとに行動していたようだ。 だから彼らの傷に、オリーブ油とぶどう酒を注
がなかった。 彼らを聖霊に触れさせなかった。 キリストに引き合わせなかった。 それはエ
ルサレムからエリコに下ることであり、半死の人をそのままにして立ち去って行った祭司やレビ
人と同じではないだろうか。

我々は、決して偽善に走ったり、自分の基準でみことばを行なって、「自分は御言葉を行なって
いる」と悦に入らないように気をつけたいものだ。 一人一人ができることは、まず自分がキリ
ストにしっかりつながること。 キリストのからだの一つの器官として機能すること。 そのため
にも、やはりキリストにつながり聖霊の流れに乗ることが大切である。 そうして自分の力量に
応じて、人をキリストにつながらせること、聖霊に触れさせることをしていくのである。 

キリストにしっかりつながり、聖霊の流れに乗って導かれるまま進んでいくことが、神を愛し、隣
人を愛することにつながっていくのではないだろうか。 日々絶えず、主イエス・キリストから目
を離さず、主の御前にへりくだって絶えず祈り、神に依り頼んでいきたいものである。 

★新約聖書  第一コリント人への手紙 12:12、12:27
   ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい
   多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
    あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

★旧約聖書 申命記 6:5
   心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。




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