めんどり通信/2010年9月26日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<キリストが働かれる時が神の時> |
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★旧約聖書 歴代誌 第二 16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている 人々に御力をあらわしてくださるのです。・・ ★旧約聖書 エレミヤ書 1:12 ・・わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ。 ●「神の時」が来るまで表面上は動きがなく、何も変わっていないように見受けられることがあ る。 しかし一旦、「神の時」が来ると動き出し、表面上にもはっきりと見える。 その時まで、 じっと待てるかどうかが一つの鍵である。 「神の時」まで、じっと待てず動けば、人の考え、力 が介入することになる。 確かに主は人を用いてくださるし、人を用いて神の業をあらわされる ことも多い。 しかし、「主はすばらしい」と主をほめたたえても人の知恵、力が介入するのと全く介入しない のとでは、神の業の偉大さ、荘厳さ、すばらしさが全く違ってくる。 また人の、神の前でのへ りくだりの深さも違ってくる。 ヨハネ5章に記されているが、エルサレムの羊の門の近くにベテスダと呼ばれる池があった。 ベテスダとは「憐れみの家」という意味を持っている。 この池は間欠泉のようなもので、時々 水が吹き出し、水面が波立ったときに、最初に入ったものは、奇跡的に癒されると信じられて いたようだ。 実際、そのようなことがあったと思われる。 口語訳には「主の御使がこの池に 降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっ ていても、いやされたからである。」と書かれている。 だから、このベテスダの池の辺には、 自分が直されることを期待して「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せってい た。(ヨハネ福5:3)」 これらの病は、目に見える肉体の病気だけではなく、精神的な病、また、霊的な病をさしてい る。 病をたとえとして見るならば、信仰生活をまともに歩んでいなかった、歩めなかった人た ちが伏せっていたと言える。 その中に、38年もの間、病気の人がおり、この人にイエスは「よ くなりたいか」と声をかけられた。 この人は、「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中 に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(ヨ ハネ福5:7)」と半ばあきらめかけ、希望も失いかけた答えをした。 そのような答えにも関わらずイエスは「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と言われた。 主 がそう言われるとすぐに、その人の病は直った。 主が語られたら、そのことば通りになる。 その人は主イエスが言われた通り、床を取り上げて歩き出した。 床とは彼の生涯であり、生活のすべてであった。 床を取り上げて歩むとは、今までの生き方 を止めて、新しい生き方をするということである。 今までの生き方を引きずるのではなく、神の 憐れみの中にあってキリストと共に生きるということである。 「床を取り上げて歩まなければならない時」が人生においてもある。 自分一人では何もできな いし、人にも頼れない。 それでも古きを捨てて、新しい生き方をしなければならない。 そうい うときが度々ある。 このところで学べることは 一つは、水が動く時がある、すなわち聖霊が働かれる時があると いうこと、その時まで待たねばならないということである。 イエスが後に「あなたはよくなった。 もう罪を犯してはなりません。」と言われたことから、この人の場合、38年間は、罪によって信 仰が正しくなかった、つまり遠回りをしたということであろう。 それでもその期間、苦しんだこと は無駄にはならなかった。 イエスに直していただいた後、すぐに床を取り上げて歩き出したか らだ。 後でユダヤ人たちに、安息日だから床を取り上げてはならないと非難されても「私を直 してくださった方が、『床を取り上げて歩け。』と言われたのです。」ときっぱり言い返している。 また罪の問題でなくとも、聖霊が働かれるのを待たねばならない場合がある。 その待つ期間 は、訓練、試練の時となる。 忍耐が養われる期間となる。 しかし、いつまでもいつまでも待 つのではない。 必ず真剣に主を求めていたならば、必ず聖霊が働かれる時がある。 主に求 め続けていたならば、必ず、訓練、試練も終わりの時が来る、すなわち主が呼びかけてくださ る、働いてくださる時が来るということである。 もちろん、それですべてが終わりというのでは ない。 また新たな霊と恵みの深みのステップへと導かれる。 その段階において、また新たな 訓練はあると思われる。 神が我々に与えてくださろうとしている愛、恵み、あわれみは深いも のなのである。 もう一つは、頼るはキリストのみで、他の人にも自分にも頼らず、頼れず、にっちもさっちもい かない、まさしく四面楚歌のとき、キリストがみわざを現わされたということである。 そして、キ リストが働かれた時(みわざを現わされた時)が、神の時であるということである。 主を信じる者が、人(知恵、力など)にも自分にも頼らず、頼れず、世の常識さえにも従わず、 「頼るはキリストのみ」で生きること、そのようにすることを神は望まれている。 もちろん、この 世の中、人と関わっていき、人の力を受け、借りるときもある。 常識を行なわなければならな いときもある。 それらをすべて放棄せよ、というのではない。 ただ、主が望まれているのは、キリストにあって、人の力を受け、人の援助を受け、キリストに あって常識を行なうべきときは行ない、・・・などとすべてのことにキリスに介入していただくこ とが重要であるということだ。 主は「本当に直りたいか」「本当に救われたいか」「本当に変わりたいか」と今も絶えず我々に 問われている。 心から「直りたいです」「救われたいです」「変わりたいです」と答えて聖霊が働 かれることを願う。 主の御前にへりくだって正しく聖霊の流れに乗って、主の導かれるままを 進んでいきたいものである。 ★旧約聖書 伝道者の書 3:1~8 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、 死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、い やすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があ り、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、 抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに 時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに 時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 |
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