めんどり通信/2010年9月19日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<今、自分は神の前ではどうなのか!> |
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★新約聖書 ルカによる福音書 19:9,10 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子な のですから。 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 ●ルカによる福音書19章に当時、嫌われていた取税人のかしらザアカイのことが書かれてい る。 彼が住んでいたエリコの町をイエスが通られるという。 そのうわさを聞いたザアカイは、 イエスがどんな方か見ようと通りに出てきた。 ザアカイは表面上は、人から非難されるべきことが多かったと思われる。 日々の生活の中 で、ほとんどのユダヤ人が、貧しい生活をしていた中、ローマの権威を笠に同胞のユダヤ人か ら詐取して私腹を肥やしていたから、自国民との軋轢(あつれき)が生じることも多かったであ ろう。 そういう中で心の中に空しさを感じたりしていたと思われる。 そして、彼の心の奥底では主の救いを求めていたのではないだろうか。 その心にはかけ引き もなく、自分の計画もなかった。 ところが案外、自分が真剣に主の救いを求めていることに気 づいていなかったと思われる。 イエスのうわさを聞いたとき、イエスを「知ろう」というのではな く「見よう」と走って行った。 どうしても主に会いに行かなくてはならない、どうしても主を求めに 行かなくてはならない、と切羽つまって、真剣な求めがあった、というわけでもなかったようだ。 しかし、イエスの行かれる方に先回りして、いちじく桑の木に登ったザアカイの本心を主イエス の方がご存知だった。 主は人の心、それも心の奥を見られている。 本人も気づいていない かもしれない人の心の奥底にある本心、本音を見ておられる。 そして主は、ザアカイに「きょ うは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられた。 ザアカイは、イエスのこと ばに、すぐに素直に応答し、行動した。 案外、彼はそのとき初めて、自分は本当に主の救い を求めていたのだ、ということに気づき始めたのかもしれない。 ザアカイは大喜びしてイエスを迎えた。 人々に「あの方は罪人のところに行って客となられ た。」と言ってつぶやかれても、主イエスはザアカイの家に入ってくださった。 「主よ。ご覧くだ さい。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物 は、四倍にして返します。」と突然、ザアカイはそれまでの行いからは想像もつかないような、 思い切ったことを口にした。 主の御前でザアカイは真からへりくだった。 悔い改めた。 ユダヤ人たちはザアカイが神の 御心に従っていない、悪いやつと彼を憎み、罪人と蔑(さげす)んできた。 それまでに同胞の ユダヤ人に対して100%ザアカイが悪いとは言えないこともあったかもしれない。 しかし、ザア カイはもはや、一言も人を非難したり、自分をかばったり(自己弁護)していない。 言い訳せ ず、自分を正当化してもいない。 本当の悔い改めをして、主の御前にへりくだったからだ。 真に悔い改めた者は、自分は主の御前で何をすべきかを悟ることができる。 つまりキリストと 自分の関係であることを認識する。 主キリストを見るなら、極端な言い方になるかもしれない が、世の常識も世の善も、他の人も、もはや関係ない。 自分が神の御前にどうなのか、自分
は神の前にどうあるのかだけである。 ザアカイが、的を得た(主が良しとされる)言動を取るこ
とができたのは、心の底にあった純粋な本心、本音を主が引き上げてくださったからである。
神は純粋で正直な心の底から出て来る思いと言動を見ておられる。 傍(外側)から見たら、 自分中心に生きているように見えたとしても、たとえ表面的にはハチャメチャであったとしても、 いざ、神の前ではどうなのか、と問われる時がある。 そのとき、その人の本心が表れるもの である。 その人の本当の求めが表れるものである。 「今、自分は神の前ではどうなのか!」「今、自分は神の前にどうあるのか!」という時が人生 の中で人には必ずある。 回数こそわからないが、いや案外、しょっちゅう あるかもしれな い。 神を信じ、聖書もよく読み、祈りもするという人、外側から見てクリスチャンとしてすばらし い、人間的にもすばらしい人でも、神の前にへりくだっていないという場合があり得る。 聖書 のマタイ19章に登場してくる「金持ちの青年」は、神の戒めを守り、国を司るような高い地位を 持ったすばらしい人だったようである。 しかし、「今、自分は神の前ではどうなのか!」と問わ れることば、「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい 人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしにつ いて来なさい。(マタイ19:21)」と主から言われた時、青年はイエスから去って行ってしまった。 聖書をよく知っていて「みことばを行なう」「御心に従う」ことについて、その人の表面からではな く、心の底から(本心)から行なっている、従っている、それを神は喜ばれる。 人の心はよろず の物より偽るもの、はなはだしく悪に染まっている(エレミヤ17:9)が、「みことばを行いたい」 「主に従いたい」という意思があって、そうできるために主によりすがっている者を、主は訓練 なさる。 心の底から主が良しとされるように、みことばを行なえるよう、主に信頼できるように なるために。 言い方をかえれば、本当に真剣に主に従いたい、みことばを行いたいと思う人 が、神から訓練され、試練を与えられるといえよう。 神は愛する子を訓練されるとヘブル書に書いてある。 神は神のご計画の中にある者、つまり 心から主を信じ、主を愛する者、主にへりくだって求めてくる者を愛してくださり、ご自身の子と 見てくださる。 だからこそ試練を通し、訓練を与える。 どんなことで揺るがされても、理不尽だと思われることで揺るがされても、神の御前に正直にな り、キリストを見て、キリストの十字架に駆けずりこんで心の底からへりくだり、ザアカイのよう
に主から「きょう、救いがこの家に来ました。(ルカ19:9)」と言われたいものである。 主が語ら れたなら主がそのことば通りにしてくださるからである。 その後のザアカイについては聖書には記されていないが、「きょう、救いがこの家に来ました。 (ルカ19:9)」のことばがあるので、主はそのことばに責任を持ってくださったであろう。 推測で はあるが、ザアカイはへりくだりを続けていったのではないだろうか。 もし、途中で高ぶったな ら、主はザアカイがへりくだるための体験(訓練、試練)を与えられたことであろう。 主の御心 から逸れたときには目を覚まさせてくださったであろう。 第一に主イエス・キリストを見続けることは、クリスチャンにとっては重要なことである。 ただ、 正しく見続けることが重要である。 そうでないと、主を見ている、従っていると思い込んで、実 は逸らされていたということが大いにあり得るからである。 とにかく、「今、自分は神の前では どうなのか!」ということを絶えず、吟味することは必要なことである。 神が望まれるのは、へ りくだり続ける者である。 今の時代、ザアカイのように肉眼でイエスキリストを見ることはできないが、確かに主は生きて おられる。 そしてザアカイに語りかけられたように、人生の中でいや日々の生活の中で我々 にも語っておられる。 声をかけておられる。 主の御前にへりくだって正しく聖霊の流れに 乗って、主の導かれるままを進んでいきたいものである。 ★旧約聖書 イザヤ書記 66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。―主の御告 げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。 |
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