めんどり通信/2010年9月5日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<神のことばは何があっても神が成就される> |
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★新約聖書 ルカによる福音書 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。 ★新約聖書 ルカによる福音書 1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。 ●ルカによる福音書1章にザカリヤとマリヤが、主の使いからの告知を受けたことについて書 かれている。 ザカリヤについてだが、彼はアロンの直系である。 アロンの家系は代々祭司 の務めを担ってきた。 ザカリヤと妻エリサベツは務めの点でも申し分のない祭司夫妻だっ た。 彼らは、このときには年老いていた。 彼らは、人生の基準を神に置き、神に従順に生き る善良な夫婦だった。 彼らには子がなかった。 当時は、子がないことは、神の祝福に預かっ ていないことで、それは恥であった。 まして祭司はアロンの家系の者のみが継ぐことができ るから、子がいなくて家系がつながっていかないというのは大きな恥であったと思われる。 だ から彼らは、ずっと子が与えられるようにと祈っていた。 ただ常識的に子を産むには不可能 な年齢に達してはいたようである。 さて、年老いたザカリヤが神殿で祭司の務めをしていたとき、御使いが現われて「あなたの願 いが聞かれた。男の子が与えられる。その子をヨハネと名づけなさい。」と神のことばが告げら れた。 ところがザカリヤは「そのことを何によって知ることができるのか」としるしを求めた。 肉(生まれつきの性質)によって現実を見たからである。 肉の基準と神の基準とは全く違う。 神のことばを肉の基準で見ればかえって疑い、つまずき、反発が生じる可能性がある。 そし て、不信仰な応答しかできなくなる。 ザカリヤのその言葉にも、神のことばに対する不信仰 の思いが込められていた。 それで子どもが生まれるまで口が聞けなくなった。 明らかに罰である。 ただ口が聞けない間 にザカリヤは砕かれ、人格的な聖化がされたと思われる。 また全く何事においても神に信頼 し、委ねることができる真の信仰を学んだと思われる。 なぜなら子が産まれて名前をつけると き、神が言われた通り、子の名前を「ヨハネ」とつけたからである。 当時、子の名前は親の名 前を入れるのが風習であり、このことは普通になされていたようである。 そのような中でも、 ザカリヤもエリサベツも神の命令に従い、子の名前を「ヨハネ」とつけた。 そこには自分の勝 手な願いで子どもが欲しいのではなく、神の祝福に預かり、神のご計画の内に入れていただく ことを望んでいたことが伺える。 いずれにしても、原則的には、我々人の不信仰や高ぶりは神の業をとどめてしまう。 我々が 「神には何でも出来る」という信仰で、「常に神に頼る」という実際に立たなければ、神は御業を そこに働く事が出来ない。 その事実をしっかり覚えておきたいものである。 ただ こういった場合がある。 それは、ザカリヤやその他、聖書に登場してくる人物を見てい ると、主がご計画のゆえに一旦、ことばを語られたときには、神の計画、主のことばは、人に よっても何によっても妨げられることはないということである。 たとえ、そこにザカリヤのよう に、神のご計画の内にある者の不信仰が出てきても、それさえ、主はその人を砕き、聖化する ために使われる。 また、主がなさることにサタンであっても阻止することはできない。 神は 「死人を生かし、無から有を呼び出される神(ロー 4:17)」であられる。 神こそ真に強い。 一 旦、ご自身が語られたことばであるなら、どのような手段をもってでも(それは神の手段)、必ず 実現される。 このようにして見るとき、主から直接、ことばを頂くということは非常に重要である。 聖書に書 いている通り、主は人の心の奥底を見られている。 表面上、いろいろ主の喜ばれないような ものが出てきたとしても、真にへりくだって主に求めている者、心の奥が素直である者、主と主 の権威の前にへりくだっている者などには、主は直接なり、人を通してなり、出来事を通してな りとことばを語って下さるであろう。 神からことばを頂いて、ますますへりくだり、神が良いことを成してくださることを信頼して、主が 現わしてくださる御わざを待ち望んでいきたいものである。 神と神のことばを信頼するがゆえ に、現実を見つめながら、そしてその現実に今できる聖霊の導きによる最善をなしながら、待 ち望んでいきたいものである。 主は遅くなることはない。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交 わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 9:15,16 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくし む。」と言われました。 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれ んでくださる神によるのです。 |
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