めんどり通信/2010年8月29日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<現状が主が語られたことばと正反対でも、その約束のことばを信じ、握って生きている信仰の姿、それもまたあかしである> |
|
★新約聖書 ヘブル人への手紙 11:18,19 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたの ですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それ で彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。 ★新約聖書 ヘブル人への手紙 11: 6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、 神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 ●信仰についてヘブル人への手紙11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えな いものを確信させるものです。」と・る。 「保証する」は「実体」とも訳すことができるという。 また「望んでいる事がら」は、人の勝手な望みではなく、キリストを知り、キリストに望みを置くと いう意味での望みであることが、ヘブル人への手紙から見ると伺える。 また、神の望み、すな わち神のことばであるとも言えよう。 だから、信仰とは、神が語られたこと、また神が望んでおられることを、その通り信じ受け入れ て、「主は主のことば通りになさる」と納得し、確信することであると言えよう。 主が語られた ことばは必ず成就する。 我々クリスチャンは、自分がどのようにして信仰を持つようになったのかという自分の救いの 体験や日常生活の中で神のみわざを体験したことについて、人に証し(あかし)することがあ る。 信仰の証しをするというのは、以前はこうこうだったが、今はこのように変わった、このよ うに思えるようになったなどと良い結果を証しする。 すばらしいことで・る。 自分が救われた体験や神のみわざを体験したことなどは、実際、良い結果の出た証しである ので比較的話しやすいかもしれない。 しかし、主が語られたことばの内容によっては、そのこ とばが成就されるのに時間のかかることがある。 早く成就していただきたいと主に祈るが、な かなか成就されないジレンマやあせりを感じる場合もある。 主が語ってくださったことばが成 就されるまでの過程において、ともすれば、徐々に状況が成就に向かって良くなっていくだろう と考えたり、主の恥になるような事態にはならないだろうと思ったりすることがある。 しかし、語られた主のことばが成就される方法も過程も人の思惑や願い通りではなく、すべて 主のご計画通りに行なわれる。 成就されるには、主の方法、主の過程がある。 しかし、クリ スチャンだから、良い証しをしなければならない、見せなければならないという思いが根強く心 の底に潜んでいる場合がある。 しかし、一旦、主が語られたことばは、主が成就なさるが、 主の方法があるので、その過程において、良い状況、好ましい状況になるとは限らない。 過程において現状が主のことばと正反対であるというときもある。 しかし、現状が主が語られ たことばと正反対であっても、その約束のことばを信じ、握って生きている信仰の姿、それもま た証しである。 現状が正反対だから、クリスチャンになれば あのように苦労するのか、とか 順調にいかないのか(この世の基準から見て)、とか・・・と思われて苦しむ必要も繕う必要もな い。 むしろ、繕うことは、クリスチャンらしく見せることであり、偽善となる可能性がある。 世の人(友達、親族、近所の人たち、知人・・・)からどう見られようが、クリスチャンからどう判 断されようが、主が語られたみことばをしっかり握っていくことは、ある意味、自我が砕かれた り、肉が切り取られるということにつながる場合がある。 そうして、主イエス・キリストへの信仰 が確固たるものとなっていく。 時が来れば、必ず主は、主のことばを成就される。 そのとき には、人の知恵、人の計画が一点でも入っていないそれまでの過程は、証しになる。 途中経 過で約束のみことばと現状、状況が正反対でも、自我が砕かれ、肉が切り取られて、純粋に 何の疑いもなく主のことばを信じ、堅く握る姿が、必ず益になる。 主が生きておられることの 証しになる。 主イエス・キリストを信じて、祈っていたら、苦しみも悲しみも傷もなく、ルンルンで変えられ過ご し、天の御国へ行ける、などということは決してない。 しかし真に心から祈っていれば、その人 に応じて起きる様々な出来事さえ、すべてその人を変えるための益にしてくださるものである。 人生に起きてくる様々な出来事は楽しいことばかりではないだろう。 苦しいこと、困難、悲しい こと、・・いろいろであろう。 真に心から主によりすがり祈り求める者のそれらの一つ一つを、 主は決して無駄にはなさらない。 だから、我々は表面のことだけに囚われるのではなく、霊の こと、すなわち主の喜ばれることに目を向けていきたいものである。 そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キ リストとの交わりを深くしていきたいものである。 そして、主からことばをいただき、聖霊の流 れに乗っていきたいものである。 ★旧約聖書 詩篇 37:5,6 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 主は、あなたの 義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。 ★旧約聖書 詩篇 62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、わ れらの避け所である。 |
|