めんどり通信/2010年8月22日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<主から愛されていることを実感する> |
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★新約聖書 ヨハネの第一の手紙 4:10
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え 物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわた しの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 ●パウロは、ローマ人へ手紙を書いたとき「神に愛され、召された聖徒一同へ」と、またテサロ ニケの人たちには「愛されている兄弟たちよ。…」と書いている。 当時、テサロニケにできた 教会は最初の本格的な異邦人教会であった。 そしてテサロニケのキリストを信じた人々は、 同じテサロニケに生きる他の人々から迫害を受けていたようである。(Tテサロニケ2:14) そ のような中での「愛されている兄弟たちよ。」との挨拶であった。 パウロは真に主イエス・キリ ストを信じた人たちは、神から愛されている者、とのメッセージをその挨拶の中に込めたようで ある。 パウロ自身、神から愛されていることを実感していた。 キリストを信じるにおいて不思議な体 験をした。(使徒9:1^18) 主イエス・キリストを信じて後のパウロの人生は苦難の連続であっ た。 川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、…などで労し苦しみ、たびた び眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった、 と聖書に記されている。(Uコリント11:26,27) しかし、それらの苦難に遭う度、神が介入され ているとしか考えられない不思議な助けや出来事の連続でもあった。 その度、パウロは神の 愛、イエス・キリストの愛を実感した。(ローマ8:38,39) そしてキリストを愛しキリストに命をか けた。 パウロは最初から主イエス・キリストを愛していたわけではない。 むしろ、パウロはイエスを信 じる人たちを迫害していた。 イエスに敵意をもち、イエスを信じる者たちを捕まえるためダマス コへ向かっていた。 もちろんイエスを主、とも神、とも思っていなかった。 しかしパウロはす べての源であられる天の父なる神を信じていた。 イエスを憎み、イエスを信じる者を捕らえる ことは、その神が喜ばれること、神の望まれることだと信じていた。 しかし、そんなパウロに復活されたイエスの方から会いに来てくださった。 そしてパウロの目 を開き、パウロを捕らえてくださった。 パウロはイエスの栄光の前にひれ伏し、生涯イエス・ キリストに仕える奴隷となった。 イエスがキリスト(救い主)であり、この方こそ、真実の神、永 遠の命であることを知った(Tヨハネ 5:20 ) 聖書に登場してくる多くの人物は、神を愛した。 ダビデもヨセフもヨハネもペテロも・・・。 彼ら は多くの困難に遭いながらも主に従って行った。 主を愛したからである。 しかし、聖書に書 いてある通り、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。 そのことを彼 らは重々、わかっていた。 神から愛されている体験が何度も何度もあったからである。 愛にはいろいろな愛があるが、真の愛は、神の愛である。 そしてこの真の愛、神の愛は、ま ず自分が神から愛されていることを知る、そのことから始まる。 人は神から愛されていること を知る、その愛を実感するから、神を愛することができるのである。 真に神を愛することがで きる者が、キリストにあって人を愛することができる。 それは人ではなく、キリストを基準にし た愛だから、押し付けにもならないし、独り善がりにも自己中心的にもならない。 聖書に「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかし いものではない。(1ヨハネ 5:3)」とある。 神を愛しているなら、神のことばを信じ、従い行おう とする。 神の望まれている通りに従い行うためには、主に頼らなければできない。 だから、 神を愛する者は絶えず、主に尋ね祈る。 神に愛される者にとっては、何も恐れるものはない。 主がその人を守られるからである。 今週も日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリスト との交わりを深くしていき、神から愛されていることを実感しながら過ごしたいものである。 ★旧約聖書 箴言 8:17 わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。 ★旧約聖書 詩篇 145:20 すべて主を愛する者は主が守られる。しかし、悪者はすべて滅ぼされる。 |
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