めんどり通信/2010年8月15日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<お盆> |
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★新約聖書 ヘブル人への手紙 9:27
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている ★新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6 わたし(キリスト)は道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、 だれひとり父のみもと(天国)に来ることはありません。 ●8月はお盆ということで以前、いろいろ調べていたノートを探していたが、なかなか見つから なかった。 ネットで調べたりしていると、ちょうどテレビでお盆について説明していたのを見る ことができた。 少し書いてみる。 お盆は正式には[孟蘭盆会]と言う。 これはインドの言葉の一つ、サンスクリット語のウラバン ナ(逆さ吊り)を漢字で音写したもの。 その起源は「盂蘭盆経」にあるが、これは釈迦やインド の仏弟子らの教えではなく、仏教が中国に伝播する間に中国の死霊や祖霊の供養に関する 風習と、儒教の孝道の教えを取り入れた創作であるらしい。 したがって、仏教学者の間では 「偽経」とされているという。(ネットより) 伝承にはその昔、釈迦の弟子の目蓮尊者が、ある時神通力によって亡き母が餓鬼道に落ち 逆さ吊りにされて苦しんでいると知った。 そこで、どうしたら母親を救えるのか、釈迦に相談す ると、おまえが多くの人に施しをすれば母親は救われると言われた。 そこで、日蓮尊者は釈 迦の教えにしたがい、多くの僧たちに飲食物をささげて供養した。 すると、その功徳によって 母親の罪業も許された、という話しである。 しかし、そもそも釈迦は、死後の霊魂のことについては何も語らず、死後のことなどに囚われ ないための諦観思想(諦めの境地)を理想とし、それを悟りの境地、ニルバーナ(涅槃)として 教えた。 生き残っている人の善行、供養、読経、宗教儀式等で死人を成仏させ、悟りを開か せるなどということを教えた経典など原始仏教には存在しないし、本来の仏教とは全く無関係 であるという。 仏教の戒律を全く守らずに死んだ人が、遺族の支払うお金で追善供養ができ てしまうという位牌や戒名の販売も本来の仏教とは無縁であり、釈迦の教えにも矛盾するとい う。(ネットより) テレビで説明していたが、8月1日は、釜蓋朔日(かまぶたついたち)と呼び、この日からお盆が 始まるという。 本来は旧暦7月1日であった。 この日、地獄では大釜の火を落とし蓋を開ける という。 これは、地獄の釜のふたの開閉を見張る番人である鬼や、その上司である閻魔大王 にも、いわゆる「薮入り」という休暇があり、そのお蔭で死者たちは一時、地獄の苦しみから逃 れられることができるらしい。 それで13日かけて家に帰っていくという。 お盆はきゅうりの馬となすの牛で地獄から出て来た 霊魂を迎えるという。 8月13日は盆の迎え火、8月16日は盆の送り火を炊くという。 きゅうり の馬は霊魂が早く家へ来れるように、茄子の牛は地獄へゆっくり帰れるようにという意味があ るようだ。 テレビではゲストの人が、「地獄からだけ帰って来るのか?極楽浄土(天国)からは 帰ってこないのか?」と説明しているキャスターに尋ねていた。 結局、テレビの出演者たちの 結論は、地獄からも天国からもお盆には家に帰ってくる、ということで首をかしげながらも落ち 着いたようだ。
死後の事は、誰にも正確には、分からない。 だれも死後の世界へ行ったことはない。 臨死 体験をした人は、死後の世界へ行ったということを耳にしたことがあるが、臨死体験の統計に 関する本などから見ると、死後の世界のほんの入り口までしか行っていないようである。 だから死後の世界のことは、ある意味、神の領域であると著者は考えている。 著者が未信者 の頃、死後、人はどこへ行くのかが気になって、ありとあらゆることに時間とお金を費やして試 した。 様々な種類の先祖供養を中心にしたが、ほとんどが偶像礼拝であった。 しかし、何一 つ解決できるものはなかった。
そして、ようやく主イエス・キリストと聖書に出会い、人間が死んだら無になるのではなく、死ぬ ということは肉体が朽ちるのであって霊は生きて、死後、人間には行くべきところが確かにある こと(天国、地獄)、この地上で神を離れ好き勝手をしていても、誰でも皆、死んだら天国へい けるなどということは大間違いであることを知った。 著者は、先祖供養をしていたら、先祖も浮ばれ、自分も幸せになる、心が平安になるとキリス トを受け入れるまでずっと信じて、先祖供養に邁進していた。 だが、いくらしても平安は続か ず確信もなかった。 ところが、キリストを受け入れ、「わたしを愛し、わたしの戒めを守るもの
には、恵みを施して、千代に至るであろう。(出エジプト20:6)」のみことばに触れたとき、「あ
あ、先祖のことは神にお任せしたらいいんだ。私は神を愛し、神のことばに従っていくために、
絶えず主キリストに頼っていったらいいんだ。それが本当の先祖供養なんだ。」と思えた。
すると何ともいえない平安が心の内中に満ち溢れた。 そのような平安は一時のことではな
く、今日までずっと続いている。
聖書にはクリスチャンであろうがなかろうが、どんな人でも、死後、神の前に立つ、すなわち裁 判、裁きの場に立つことを述べている。 その裁きは、神の基準によって、神がなさる。 決し て人が見て、あの人は、良いことをした、あの人は私よりは悪い、とか人の見解などは全く入る 余地はない。 神が地上の人を見られたとき、神の見解は「 彼らはみな、離れて行き、だれも かれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇 14:3 )」である。 罪人 であるすべての人は、そのままの状態では、神の前に誰一人、無罪になる者はいない。 しかし、聖書は、人が死後の裁きの座で、無罪になる方法を書いている。 イエス・キリストが 十字架の上で、私たちの罪をその身に負って死んでくださり、3日目によみがえられて、今も 我々人を救うために働いてくださっている。 だから、主イエス・キリストを求める者は、罪を離 れ、義のために生きることができるのである。 また裁きの座では、キリストの血のゆえに、無 罪としてくださるばかりか、主が用意してくださっている、真の天の御国に入ることができるので ある。 (HPめんどり聖書研究会 めんどり通信より) お盆は親族が久しぶりに集まる家も多いことだろう。 部屋を掃除するように、お墓も主に感謝 しつつ、故人を偲びつつ掃除して、久しぶりに会う親族と楽しく食事をしながら語らう場としたい ものである。 そのようにすることは、真の神、主イエス・キリストを信じた者として、先祖と親族
に対する敬愛の念を表現することにもなるのではないだろうか。
今週も日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリスト との交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださっ たからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中か らよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 |
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