めんどり通信/2010年6月27日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<神と神が立てた権威の下にへりくだる> |
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★新約聖書 ローマ人への手紙 13:1,2 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は すべて、神によって立てられたものです。 したがって、権威に逆らっている人は、神の定 めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。 ★旧約聖書 イザヤ書57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せら れる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりく だった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。 ●旧約聖書の民数記12章にミリアムとアロンがモーセに反抗した事件が記されている。 アロ ンはモーセの兄であり、ミリアムはアロンとモーセの姉である。 ミリアムとアロンは、モーセが クシュ人(異邦人)を妻にしていたことを非難した。 当時はそのことはどうも正しいことであっ たようである。(申命記7:3~4) 神は、非難の内容ではなく、非難したことを問題にされた。 ま た更に彼らは「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないで しょうか。(民数記12:2)」と言った。 確かにミリアムは預言者であり、アロンは大祭司であった。 しかしその中でも神はモーセを指 導者として立てられた。 モーセは神が選び立てた権威である。 モーセに反抗することは、神 が立てた権威に反抗すること、すなわち神ご自身に反抗することである。 神に反抗したなら、 ただではすまない。 神は怒られた。 ミリヤムはらい病になった。 アロンは首謀者でなかっ たのかもしれない。 らい病にはならなかった。 ミリアムはモーセのとりなしによって死を免 れ、7日間、宿営から隔離されただけで許された。 アロンとミリアムの心にはモーセに対するねたみがあった。 モーセは弟、年下であるのに モーセだけが指導者として尊ばれることに不満を抱いていたようである。 このときモーセは、 自ら彼らに反論はしなかったようだ。 指導者になることは人が決めることではなく、神が決め られること、ある意味、神の領域であることを理解していたと思われる。 すべてを神に任せて いた。 つまりモーセは神の前にへりくだっていた。 神が立てた権威に反抗したときには、神ご自身が裁かれる。 これは神の原則である。 教会 においてもやはり神が立てた権威がある。 神が「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を 伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった。(エペソ人4:11^13)」と書かれている。 牧師や教師など教役者は、神が教会にお立てになった権威である。 その複数の教役者のな かでもモーセのように指導者として神が立てた人がいる。 我々クリスチャンはその人を通して語られた神のことばに敏感であるべきだ。 故意であろう が無意識であろうが、「権威に逆らっている人は、神の定めにそむいている(ローマ人13:2)」 ことになるからだ。「そむいた人は自分の身にさばきを招(ローマ人13:2)」く。 恐ろしいことで ある。 しかし、神に立てられた人はもっと神のことばに敏感であるべきだ。 「私の兄弟たち。多くの 者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受け るのです。(ヤコブの手紙3:1)」と書かれているからだ。 モーセは「地上のだれにもまさって非 常に謙遜で(民数記12:3)」あり、「忠実な者」であり、「主の姿を仰ぎ見ている」人であった。 神が立てられた人も神と神が立てられた権威と神のことばに、誰よりも非常に謙遜であり、忠 実であり、主の姿を仰ぎ見ている、すなわち常に、主と深く交わっていることが重要である。 そうすることが、その人を守ることになる。 そのため信者を思う熱心さの影に自らの肉の思い が隠されることのないようにしなくてはならない。 主の御心を行っている者は特に、心の内に 潜ませていてはならない罪や思い、考えがないかどうか、肉の思いがないかどうか・・など他 の人以上に、慎重に主に点検していただく必要があるかもしれない。 要は主との深い交わ りが必要なのである。 アロンがモーセに反抗したのは、このときだけではない。 このずっと前、モーセが神からの律 法を授かるためにシナイ山に登った。(出エジプト19~31章) イスラエルの民はシナイの荒野で 宿営していた。 シナイ山からモーセが降りてくるのに手間取っている間に、民は不安になり、 自分たちを導く神を造ってくれ、とアロンに要求した。 愚かにもアロンは金の子牛を鋳て造 り、「これがあなたがたをエジプトから連れ上った神だ」と宣言し、祭りを布告したことがあった。 アロンはモーセとともにイスラエルを指導する立場にあった。 しかし、アロンは彼らを説得しよ うともせず、彼らに迎合して、進んで偶像を造った。 「・・・耳にある金の耳輪をはずして、私の ところに持って来なさい。・・彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子 牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」 と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。 「あすは主への祭りである。(出エジプト31:1~6)」 またアロンはモーセにただされると、「・・・ 私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。 彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たので す。(出エジプト32:21~24)」と答えている。 これらの言葉を見ると、アロンはただ単に民の圧力に屈しただけだと言えるのだろうか? ア ロンは終始モーセに同行し、協力した人である。 モーセの代弁者として活躍した人である。 そのアロンがただ人の声に動かされ、彼らに妥協して神が忌み嫌われる偶像礼拝を簡単にで きるものだろうか? 命を脅かされるほど民に迫られて子牛の像を作り、祭壇を築き、主の祭 りだと宣言したのだろうか? 多くの人を過ちに陥らせることと知りながら、自分の命を重んじ るだけでなく、それができる引き金となるような思い、たとえばモーセに対するねたみなどが、 心の奥底にあったのではないだろうか? 内に潜んでいる思い、隠されているものは いつか 明らかになってくるものである。 行動となって表れてくるものである。 また人を恐れて神を恐 れない者の道は逸れて行く。 最終的権威は神にある。 権威は神によって立てられたものである。 だから、神はクリスチャ ンが権威に従っているかどうかを見られる。 神が立てた人も神と神のことばに真にしたがっ ているかどうかを見られる。 今日、聖霊の流れに乗る、聖霊に導かれることはクリスチャンが 目標に向かってまっすぐ進むためには、どうしても必要なことである。 結局、人は神と神のこ とば、神が立てた権威の下にへりくだるべきである。 それは、そのように へりくだっているな ら、神のことば、神のみこころに従うことができるからである。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリストとの交 わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 ★旧約聖書 箴言 29:25 人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配 と権威のかしらです。 |
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