めんどり通信/2010年6月20日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<主が語られたことばが成就されるまで、へりくだり続ける> |
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★旧約聖書 詩篇 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神 は、心と思いを調べられます。 ★旧約聖書 箴言 29:23 人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉を得る。 ●旧約聖書で記されているイスラエル人の出エジプトは歴史的にいつまでも覚えられる出来事 である。 イスラエル人は430年ほどエジプトで奴隷だった。 生まれつきの性質以外に、その 間に染み込んだ性質、奴隷根性が削ぎ落とされる荒野の40年間の試練、訓練の様子は、 我々に対する警告であると書かれている。(Tコリント10:11) 出エジプトした人たちの中で、20歳以上の人たちは、全部死んだ。 約束の地(乳と蜜の流れ る地、カナンの地)には入ることができなかった。 神が「カナンの地をあなたがたに与える」と のことば、約束は、彼らの上には成就しなかった。 40年間の試練、訓練に彼らは合格しな かったということになろう。 しかし、主は言われる。 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありま せん。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるような ことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださ います。(Tコリント10:13)」 「主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打 たれるのである(口語訳/ヘブル12:6)」 結局、原因は彼らが神に信頼せず、つぶやきの連続で不信仰、傲慢のゆえだったということで ある。 神のことば、約束よりも自分の願い、思いを優先したからだ。 自己主張をし、自我を 押し通したからだ。 神に信頼し続ける、信仰を全うする、神の前にへりくだり続ける、というこ とは重要なことである。現代のクリスチャンにとって約束の地とは、天の御国であろう。 みこと ば通り、主は約束の地(天の御国)に入らせるため、我々が持っていてはならないもの、またこ の地上で我々が、生まれつきの性質、自我、肉で生きるのではなく、霊で生きるようになるた めにも自我、肉などを試練、訓練によって削ぎ取ってくださる。 イエスは言われた。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばに よる。(マタイ4:4)」「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。(ヨハネ福 6:63 )」と。 神は真実であられ、神は愛であられるから、愛する子を訓練されるのである。 我々がすべきことは、この神に信頼し、神のことばを信じ、受け入れることである。 どのような ときでも、口先で祈るのではなく、軽く祈るのでもなく、心の底から正直に祈ることである。 さて、荒野でコラがモーセに不満をもっている部族のアビラム、ダタンと共謀し、会衆の指導者 250人を煽動してモーセに反抗した出来事があった。 結果、彼らとその家族、またコラに属す るすべての者、すべての持ち物とが避けた地面にのみこまれ、共謀者250人も天から火が下っ て焼き尽くされるという神の裁きを受けた。 この中のアビラム、ダタンの場合、モーセに「あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせ て、荒野で私たちを死なせようとしている。そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨し ている。それでも不足があるのか。(民数記16:13)」と反抗した。 どこから救われたのか、長 年ずっと奴隷で苦しんでいたことなど、すっかり忘れたかのように言っている。 自分たちの行 為を棚に上げて、責任転嫁をしている。 不信仰、傲慢、罪は神のことばを、反抗、攻撃の道 具にさえして、自分の自我、主張を無理にでも押し通すものであることを見ることができる。 そして翌日、神の裁き、惨劇を目の当たりに見たイスラエル人の全会衆は、神を恐れるどころ か、モーセとアロンを殺人呼ばわりして、非難を浴びせるという大反乱が起きた。 そのときの 主の怒りはすさまじく、会衆を救うためにモーセの命令によりアロンが贖いをするが、時すでに 遅く14,700人が疫病で死ぬという大事件になった。 アビラム、ダタンもイスラエルの全会衆も「カナンの地をあなたがたに与える」とのことば、約束 を聞いていた。 最初、受け入れてもいた。 しかし、様々な試練、訓練の中で、結局は彼らは 主の前にへりくだることをしなかった。 それは自我が砕かれず、肉が削り取られなかったとい うことである。 モーセに反抗、反逆する、そのような策略に加担するような自我が砕かれなけ ればならない。 反抗する根底は、ねたみや不満、傲慢な思いが心の奥底に潜んでいるという ことである。 神は約束をくださったならば、真実な方であるから必ず成就してくださる。 しかし、その方法、 過程は主が定められた主の時、主の方法、主のご計画された過程がある。 我々がしなけれ ばならないことは、とにかく主の前にへりくだりを続けるということである。主の前に正直になる ということである。 自我が砕かれるのは嫌なことかもしれない。 肉(生まれつきの性質など)が切り取られるのは 痛いことかもしれない。 しかし、イエスは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨 て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(マタイ16:24)」 と言われる。 主は生き ておられる。 だから主の前に正直になり、心の底からへりくだり、主のことばに従っていくな ら、主は必ず導いてくださる。 気をつけなければならないのは、モーセとアロンに反抗していた彼らは、自分が罪を犯してい るとは思っていなかった。 このようなことを行なっているとき、自分は正しいことを行なってい ると間違って確信することさえしてしまう危険性がある。 心の思い、それも心の奥底に潜んで いる(潜ませている)思いを日々点検し、また主に調べていただかなければならない。 とにかく、主と主のことばの前にへりくだり続けることである。 そうすることが本当に主を信じ ている、と言える。 信仰を全うできる。 日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の 御前にへりくだって祈り、キリストとの交わりを深くしていき、聖霊の流れに乗っていきたいもの である。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私た ちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 ★旧約聖書 詩篇 33:10,31 主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。 主のはかりごとは とこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。 |
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