めんどり通信/2010年6月13日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<心のそこまで清められ、最後まで主の前にへりくだり続ける> |
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★旧約聖書(口語訳) 詩篇 25:9
へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。 ★旧約聖書(口語訳) 箴言 27:21 るつぼによって銀をためし、炉によって金をためす、人はその称賛によってためされる。 ★新約聖書 マタイによる福音書 6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を 重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕える ということはできません。 ●旧約時代(紀元前700年頃)、「ヒゼキヤは二十五歳で(ユダの)王となり、二十九年間エル サレムで王位にあった。(U歴代誌29:1)」 先代の父アハズ王は、偶像礼拝を積極的に行っ た悪い王だった。 しかしヒゼキヤは25歳で王位につくと先ず宮清めを手がけ、神殿の中の偶 像を叩き出した。 過越の祭り、祭司、レビ人の制度の再徹底など次々と神殿にかかわること について神の命令を心を尽くして行ない、その目的を果たした。 ヒデキヤがこれらの事を忠実に行った後、ヒゼキヤの治世の第14年、アッシリヤの王セナケリ ブがユダ王国を攻めてきた。 セナケリブが城壁のある町々を落したとき、ヒデキヤ王は預言 者イザヤに窮状を訴え、イスラエルの神を冒涜するアッシリヤの王セナケリブのことばを神に 訴えた。 そして神に信頼し祈った。 神はヒゼキヤ王の信仰に応え、「主の使いが出て行っ て、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺し」、エルサレムを救われた。 主が奇蹟をもってエルサレムを救われてから、多くの人々が主への贈り物を携え、ユダの王ヒ ゼキヤに贈るえりすぐりの品々を持って、エルサレムに来るようになり、この時以来、彼はすべ ての国々から尊敬の目で見られるようになった。(U歴代誌32:23) 問題が解決した、災いが過ぎ去った、苦しみから解放された・・・などは良いことである。 感謝 なことである。 人から尊敬される、人にほめられる、・・・別に悪いことではない。 しかし、そ のようなときこそ人の本心が露(あらわ)にされるときかもしれない。 人は苦難を乗り越えたか ら、課題を解決できたから、神の助けと上からの知恵によって災いを回避できたからといって、 人が完全になったわけではない。 我々人は、この地上生活をするにおいて、まだまだ完全で はない途上の者であることをわきまえておく必要がある。 あのパウロでさえ、「すでに完全な 者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。(ピリピ 3:1 2)」と晩年に言っている。 我々は、余計、主によりすがる必要がある。 安堵して座り込むとこ ろに隙ができる可能性がある。 さて、その頃、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。 そこへ預言者イザヤが来て、彼 に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」(U 列王記20:1) するとヒゼキヤは大声で泣いて神に命乞いの祈願をした。 すると神はいやして くださり、3日目には主の宮に上ることと15年の寿命を与えることを約束してくださった。 ヒゼ キヤがそのしるしを求めると「影が十度あとに戻る」しるしが与えられた。(列王記20:1〜11、 イザヤ38:1〜8)
ヒゼキヤが寿命をのばしてほしいと15年長生きしたが、それはむしろ良い結果を生まなかっ た。 晩年の失敗によって、ユダの歴史において致命的な外傷を与えただけでなく、長生きし た15年の間に生まれたマナセは、祖父アハズが行なったこととまったく同じこと、神の忌み嫌 われることをした。 本当は神が定めておられる寿命の長さが一番いいのである。 ヒゼキヤは人から尊敬の目で 見られるようになってこの地上の体の命に執着するようになったのか、財産が増えたから体の 命に執着するようになったのか、もしくは彼のもともとの本心が体の命に執着していたのか、定 かではないが、いずれにしても「神の言葉」があったとき、その言葉に逆らうかのように命乞い をした。 そこが問題である。 「神の言葉」をそのまま受け入れることが、神の前にへりくだる ことである。 主はあわれみ深い方だから、要求を聞いてくださった。 しかし、体の命にこだわ り、自分の願いを主張するその性質は、その後、主の御心に沿わないことを行なっていくこと になった。 ヒゼキヤ王がいやされた頃、彼のもとに、当時まだ小国であったバビロン帝国の王メロダク・ バルアダンから、使者が見舞いにやって来た。 このことは神がヒデキヤを試みて、彼の心に あることをことごとく知るためであったと記されている。(U歴代誌32:31) 非常に厳粛なことで ある。 神は我々人を試されるのは、「自分たちが獣にすぎないことを悟らせられる」「おのお のに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」と書かれている。 (伝 道3:18、エレミヤ 17:10) また、「キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるた めです。(Tペテロ4:13)」とも書かれている。 ヒデキヤは全快と見舞いの喜びのあまり心が舞い上がった。 彼の本心が浮き彫りになった。 使者に宝物倉を開いてすべてのものを見せてしまう。 そこで主はイザヤを通して「すべて、バ ビロンへ運び去られる」、また「あなた自身の息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿 で宦官となる者があろう」とヒゼキヤに告げた。 すると「ヒデキヤはイザヤに言った。「あなた が告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではな かろうか、と思ったからである。」(U列王記20:19) ヒデキヤは主に堅くすがって、主がモーセに命じられた命令を守り、苦難のときには主に信頼 して祈り、救われるという経験をした。 このようなヒデキヤの信仰は、我々が見習うべきところ であろう。 しかし、結局、人に尊敬されて心が高ぶったのか、神の宣告(ことば)を聞いても、 受け入れることができず、命長らえることを求めたヒゼキヤの代償は、彼のすばらしい信仰と 業績に大きな汚点を残した。 またそれだけでなく、ヒデキヤの本心が露(あらわ)になった。 すなわち、体の命に執着してい ること、自分の財産はこれだけあるのだと見栄を張ることによって、本心は金や富を求めてい ること、などが露にされた。 そして極めつけは子や子孫が今後、どうなろうが心痛めることが なく、むしろ、自分のことだけ考える自己中心的であることも暴露されたといえよう。 このようにして見ると、神の前にへりくだりを続ける、主の喜ばれるように従い続けるというの はなかなか難しいものである。 主が良しとされるときがあったから、それだけでは主は良しと はされない。 最後まで神の前にへりくだり続けることが重要である。 最後まで主の喜ばれる ように従い続けることが重要である。 そのためにも心の奥底まで主に清めていただくことが大切である。 日々の生活の中で、主の 主権を認め、主の前に自分のむなしさを徹底的に知り、神に全面的に委ねていく生き方、すな わち「主を恐れ、主の御前にへりくだる」ことを徹底していきたいものである。 ★新約聖書 ピリピ人への手紙 2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた 者と思いなさい。 |
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