めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年4月11日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<キリストに仕える者としての訓練>


★旧約聖書  イザヤ書 46:3
     わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時か
    らになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。

★旧約聖書 詩篇 22:10
   生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私
   の神です。

●12弟子は、3年半(実質は約2年)直接キリストと行動を共にして訓練を受けたことは、よく知
られていることである。 福音書にその様子が書かれている。 聖書では12弟子のそれ以前の
詳細については書かれていないが、選びについてイエスが「わたしがあなたがたを選び、あな
たがたを任命したのです。(ヨハネ福15:16)」
と言われた。 また聖書には「すなわち、神は私た
ちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ
ました。(エペソ 1:4)」 「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が(ガ
ラテヤ1:15)」
と記されている。 

人の側からすると、人がキリストを信じ受け入れた時が、主が自分を選んでくださっていたと分
かる時であろう。 しかし神にはご計画があって、その時までご自身を示されるのを待っておら
れたかのようである。 

旧約時代、その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選び
の計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
神はリベカに「兄(エ
サウ)は弟(ヤコブ)に仕える」
と彼女に告げられた。(ローマ9:10^13) そして、告げられた通
り、神は弟のヤコブに長子の特権を与えることを良しとされた。 

このように「選びの計画」はある。 神は人が生まれる前から「選びの計画」を持っておられる
ようである。 ある意味、人間の運命の鍵は、神が握っておられると言える。 そうなるといろい
ろ抗議の言葉が来そうであるが、パウロはその運命について被造物はとやかく文句を言う権
利はないとはっきり言っている。(ローマ9:19^23)

ただ覚えておかなければならないことは、誰が選ばれているのかを神は知っておられるが、人
は誰もそのことを知らない。 だから、今、クリスチャンになっているから自分は神に選ばれて
いると言っても、最後までキリストへの信仰を全うできるかどうかはわからない。 また、反対に
今、神に背いた生き方をしていたとしても、その人が神に選ばれていないとは限らない。 救い
は神のものである。 だから明日、その人は主イエス・キリストを明確に受け入れて救われ、そ
して信仰を最後まで全うした、つまり神に選ばれていたと言えるかもしれないのだ。 人間の人
生には どんなどんでん返しがあるかわからない。 サタンは人を地獄への道連れにしようと
躍起になっている。(Tペテロ5:8) 

だから、今、救われている、いわばクリスチャンと呼ばれる人も日々、真に主イエス・キリストの
御前にへりくだり、従っていくために信仰と自分をキリストにあって吟味することが必要である。 
また、まだ主イエス・キリストを受け入れていない人は、もう少し自分の好きなように生きて自
由を謳歌して、それから、主イエス・キリストを信じよう、もしくは死期が近づいてから、天国へ
行くために主イエス・キリストを信じようというような思いがあれば捨てることを勧める。 

なぜなら、神は人の心の奥底を見ておられる。 そのような者に主はご自身を示されるとは言
い切れないからだ。 「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはでき
ません。(Tコリント12:3 )」
と書かれている。 また、神は選ばれた者は「神の作品であって、
良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。(エペソ2:10 )」
と語られて
いる。 つまり主に仕えることができるように造られ、選ばれたのである。 

さて、このように人は神によって母の胎の中にいるときからキリストにあって選ばれていたとす
るならば、その人が明確に主イエス・キリストを受け入れた時より以前から、主の御手がその
人の上にあるように思われる。 その人が神を知らずに過ごした中でしてきた様々な体験、経
験、出来事、思い、ことば、出会い・・・・等など、すべてを神はご存知である。 

そして知っておられるだけでなく、救われ、主に仕えさせていただくようになったとき、それらの
一つ一つが、主に仕えることができるための益にしてくださっていることを知るであろう。 その
中には主が訓練、試練としてくださったこともあろう。

12弟子はキリストと共に行動した約2年、もしくは3年間だけが訓練のときではなかったと思わ
れる。 もちろん、そのときの訓練が大きな位置を占めていたことは確かだが、人がたった2,3
年ほど主の訓練をしたからといって、主の弟子として、しもべとして歩めるものではない。 12
弟子のそれぞれ、それまでに生きてきた過程の中での様々な出来事、体験さえも主は益にし
てくださっていた、つまり訓練としてくださっていたのではないだろうか。


訓練、試練はある意味、生まれたときから始まっているのではないだろうか。 訓練、試練と
いうほどでなくても、明確に救われ、クリスチャンとして主に仕えることができるようになるまで

のことも主は、一人一人に応じて、益にしてくださると思われる。 また、それらは頭の記憶や
ことばで並び立てることはできなくても、主がその人の霊に刻んでくださっているように思われ
る。 主に選ばれた者は、生まれたときから主に負われ、担われてきているのである。 ただ
ただ主を褒め称える。 主に感謝する。 だから「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、
私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(Uコリント5:9)」と絶えず言える人生
とありたいものである。

★新約聖書 第一ペテロ の手紙 1:7
   信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・
   キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

★旧約聖書 申命記 8:5
   あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、
   知らなければならない。



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