めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年2月28日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<本心が何を求めているかで奇蹟を見ても体験しても信仰を強くするのに役立たないことがある>



★旧約聖書 歴代誌 第一 16:12(口語訳)
   そのしもべアブラハムのすえよ、/その選ばれたヤコブの子らよ。主のなされたくすしき
   みわざと、その奇跡と、/そのみ口のさばきとを心にとめよ。

★新約聖書 ローマ人への手紙 4:20,21
      彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなっ
     て、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

●福音書の中にはイエスが行われた奇蹟が多く記されている。 ヨハネは「イエスが行なわれ
たことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書
物を入れることができまい(ヨハネ福21:25 )」
と言っている。 これらの奇蹟をいつもイエスに
従っていた弟子たちやイエスの周りに取り巻いていた群集は見ていた。 群集の反応は、恐れ
を抱き神をあがめたり、驚いたりしていた。(マタイ9:8,12:23,ルカ7:16)

イエスによって5つのパンと2匹の魚で大勢の人々(男だけでも5千人)が満腹した後、人々はイ
エスを王にしようとした。 イエスはそのことを知って山に退かれた後、カペナウムへ弟子たち
と一緒に行かれたが、群集はイエスを探し追って来た。

そのときイエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。(ヨハネ福6:35)」 イエスは「罪人を
救う」ために来られた。 だから「わたしの肉を食べ、血を飲め」と仰せられる。 すなわち、『主
イエス・キリストを全面的に信じ受け入れよ、聖霊によって祈れ』と言われる。 

ところが、群集や弟子と呼ばれる人々の多くは、イエスが人々の肉体を養っている間は、イエ
スはすばらしい、偉大だと考え、イエスを王にしようとさえした。 しかし、このことばを聞いて彼
らはイエスに興味を失い始めた。 そして皆、イエスから離れ去って行った。(ヨハネ福6:66) 
多くの奇蹟を見、また中には体験もした人々もいたはずなのに、イエスのことばを受け入れ
ず、悔い改めもせず、神を恐れもしなかった。 自分たちの要求に沿っていたときは、一時的
な盛り上がりをしたが、また自分中心に戻ってしまった。 

群集は多くの奇蹟を見慣れるだけで、それらの奇蹟は彼らの信仰には結びつかなかった。 
彼らの信仰を立て上げる材料にはならなかった。 また奇蹟を軽く受け止めていたと思われ
る。 そして結局、彼らの本心、本性は「主の提示される真の救い」を求めていなかったことが
露呈された。 イエスはご自分が神から遣わされた救い主であるということを人々に確信させ
るために奇蹟を行われたのである。(ヨハネ福15:24)

このことは群集の問題だけではない。 我々も本心を探ってみる必要があるかもしれない。 
「キリストの救い」「主の御心」「主の御旨」を求めている、行っていると言っても心の奥底では、
「自分」「自己」が頑として崩れていない場合が有り得る。 様々なことで揺さぶられて始めて、
自分の本心、本性に気づく場合が有り得る。 
 
また、旧約時代、出エジプトしたイスラエル人たちは、多くの奇蹟を体験した。 しかし、奇蹟を
体験してもすぐに、主につぶやいた。 奇蹟は更に深く主を知るようになるため、神ご自身を見
せるために現された。 しかし民は見ていなかった。 神の導きを分かっていなかった。 神の
御許しがなければ何事も起こりえないが、主は人が主を知るため、神の業を知るために困
難、苦難、逆境をも許される。 しかしイスラエル人たちは困難が起きるとすぐにつぶやいた。 
不信仰になった。 

奇蹟を体験したり見たりして、一時、すばらしい、すごいと神をあがめても、奇蹟が起こった後
の状態、状況にすぐに座り込んで、または慣れてしまい、せっかくの奇蹟が信仰を確立したり、
信仰が強くなったりするのに結びつかないということが有り得る。 どのようなところから奇蹟が
起きて、引き上げられたのかをすっかり忘れてしまったかのようになることが有り得る。 

出エジプトしたイスラエル人たちは奇蹟を目の当たりにしても主を試したり、主のことばに信頼
せず、結局、ほとんどのイスラエル人が、神が約束されていた乳と蜜の流れるカナンの地に入
れなかった。

我々クリスチャンは日々の生活の中で、群集やイスラエル人ほどではなくても主の奇蹟を体験
したり、見たりしていることがあるかもしれない。 しっかりと見ていないと見過ごしてしまうよう
なことを通して神は働かれていることも多いと思われる。 苦難や逆境の中でいるときはなお
更、主は神のわざを現してくださっている可能性が強い。 

いずれにしても主が奇蹟を現してくださったときには、へりくだって霊の深みから受け止めて信
仰に結びつけることが大切である。 奇蹟の大小に関わらず、どのような状態からこの奇蹟に
よって、どうなったかをしっかりと見て、より深く御言葉を握り、主に感謝しつつ進んでいくことが
大切である。 

奇蹟と信仰は関係がある。 確かに、不信仰の者たちのところでは奇蹟は現されない。(マタイ
13:58) 
「神の栄光を見る」「神のみわざを見る」「奇蹟を見る、体験する」ことは、まず真に主
のことばを信じることから始まる。 しかし奇蹟が現されても軽く捉えたり、奇蹟に見慣れて、神
の前にへりくだらないなら、せっかく持っていた信仰が強くなるどころか崩れてしまうこともあり
得る。 

我々は主のなさったすべてのことに思いを巡らし、主のみわざを、静かに考える生活をしてい
きたいものである。 そして主の良くしてくださったことを何一つ忘れず、主の御前にへりくだっ
て、祈りつつ日々の歩みを一歩一歩、確実に進めていきたいものである。(詩篇 77:12,103:2)
 

★旧約聖書  イザヤ書 51:1
       義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、
       掘り出された穴を見よ。




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