めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年2月21日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<ダビデの生涯から学ぶ>


★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:16
   あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがた
   を任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残る
   ためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があな
   たがたにお与えになるためです。

★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。

●ダビデの人生を見るとき、ダビデは神に愛された人であったことがわかる。 神に愛された
者だから厳しい訓練、試練もあった。 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての
子に、むちを加えられるからである。(ヘブル12:6 )」
とある通りである。 

また、神はご計画を持っておられる。 ダビデの上にもやはり神の計画があったことが伺える。 
まず神はダビデを選ばれた。 「人はうわべを見るが、主は心を見る。(Tサムエル記16:7)」
言われ、神はダビデの心の奥を見られて、ダビデを選ばれた。 

サムエルから油注がれてからのダビデは、サウルに命を狙われ逃亡生活を余儀なくされた。 
苦難、困難はダビデにとって訓練、試練になった。 ダビデが姦淫、殺人の罪を犯すまで、全く
罪を犯さなかったというわけではないと思われる。 大罪ではなくても外側(行い、ことばなど)、
内側(心、思い)において罪を犯してしまった可能性はある。 人は、救われたから、神に選ば
れたから、神に愛されたから罪が全くなくなった、犯さなくなったという人はいないであろう。

しかし、聖書にはダビデが姦淫、殺人の罪を犯す前は取り立てて罪を犯したことは記されてい
ない。 姦淫、殺人の罪を犯したダビデを主は許された。 しかし神のことば「今や剣は、いつ
までもあなたの家から離れない。)」「わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを
引き起こす。」
とダビデに語られた。 このことばを神からの罰、罪の刈り取りと解釈することも
できるだろうが、むしろ神はこのことばによってダビデを更に深く変えるための訓練、試練とさ
れたと思われる。 そして、家の中での訓練、試練は一人ひとりに応じてではあるが、当事
者にとっては結構厳しいものがあることもわかる。 

ダビデは子どもたちのこと、家のこと、家族のことによって揺す振られると愚かさや曖昧さなど
が浮き彫りになるだけではなく、そのようなところが切り取られていったと思われる。 そうして
人生の終わりには「長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。(T歴代誌29:28)」  
またダビデの子ソロモンに「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全き心と正しさを
もって、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのお
きてと定めとを守るなら、(T列王記9:4)」
と 主は語られるほどダビデを変えられていた。 

このようにダビデの生涯を見ると、ダビデのすべてが神の御手の中にあったことがわかる。 
主がダビデを選ばれ、訓練し、ご自身の喜ばれる者にしていかれたが、ダビデのことを通して
多く教えられる。 

救いも恵みも祝福も神のものである。 だから主が「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれ
もうと思う者をあわれむ。(出エジプト33:19 )」
と言われる。   また「救い」も神の方法と時があ
る。 「作り変え」「整え」も神の方法と時がある。 福音を聞いてすぐに素直にキリストを信じて
救われた者、ようやくイエスを信じ、口で告白して救われた者、洗礼を受けて救われたと確信し
た者、・・・様々である。 

福音を聞かずして亡くなった人や福音を聞いても理解も判断も決断もできない子どもや、この
世に生まれ出ることのできなかった子どもなど、この世にはいろいろな人がいる。 彼らは聖
書のことばには当てはまらない。 しかし、だからと言って彼らがすべて救われていないのでは
ない。 「救いは神のもの」であるから、人の側が、聖書に「イエス以外には、だれによっても救
いはない(使徒4:12)」
と書いているから、そのような人たちは救われていない、滅びていると
決めつけるものではない。 

すべてには神の方法と時がある。 まして聖書の最大のテーマ「救い」にはなお更である。 神
の領域というものがある。 だから、必要な時には、必要な人に主は救いを提示してくださるで
あろう。 もちろん人を用いてという場合が多いと思われる。 真に主に求めるならば、神は御
心を示してくださるであろう。 我々が、神のことでわからないことを求めていくことは必要なこと
であるが、わからないことを無理に解釈することは分を越えることである。  

ダビデのことでわかるように、神には人に対しても神のご計画がある。 もちろん人の心の奥
底を見られ、その人の本心が本当に主の救いを求め、主に従おうとしているのか・・・などを見
られている。 ダビデたちのようにこの地上の人生が終わってばいれば、はっきり、主の救い
を獲得できていたから神に選ばれていた者だったということがわかりやすいが。 しかしまだこ
の地上で生きている我々にとっては、今現在、主イエス・キリストを信じているからもう大丈夫、
天の御国は何をしても自分のものだ、自分は神に選ばれていたと明確に言い切ることはでき
ないのではないだろうか。 今、救われていることを常に主に感謝しつつ、へりくだっているな
らば、自分は大丈夫などと、たかをくくることはできない。 

人の心を神は「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。(エレミヤ
17:9 )」
と見ておられる。 だから安堵してどっかり座り込み、主に頼ることを怠ることは危険な
ことである。 祈らないことは危険なことである。 今、救われているからこそ、自分や自分の
力、能力などを当てにしないで、ますます絶えず主によりすがることをしていくべきであろう。 
我々クリスチャンはは救いの中にとどまり続ける、キリストの中にとどまり続けることが重要で
ある。  そのようにする者を神の側からの基準の「救い」「恵み」「祝福」を与えてくださるであ
ろう。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3
   私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思
   うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与え
   てくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。




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