めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年2月7日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<我々クリスチャンは心の底でしっかりとキリストにつながるべき>


★旧約聖書  詩篇 51:6
       ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてく
       ださい。

★新約聖書(口語訳)  黙示録 2:23
        ・・・・こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟
        るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

旧約聖書第二サムエル記12章にはダビデの罪が書かれている。 ダビデは罪を犯すまで
ずっと神を愛し神から愛され、主の導きによって戦いに次ぐ戦いをしてきた。 また、自分の命
を狙うサウルを殺す機会に2度遭遇しても、神と神の立てられた権威に服してサウルを自ら殺
すことをしなかった。

そんなダビデが、まだ戦いの最中、安堵して腰をどっかと下ろしてしまうという隙間、油断から
罪が入ってきたと思われる。 姦淫と殺人の罪を犯した。 モーセの十戒をよく知っており、神
と神の立てられた権威に服し、幼い時から神のことばに従ってきたダビデがこれらの大罪を犯
したが、ダビデは罪の深さをわかっているようで実は神の観点からは気づいていないと思われ
る。 いや気づいて苦しんでいたとしても悔い改めができなかった。 苦しんだ様子は詩篇32編
で表されているようだが、いずれにしても神に仕えてきたはずのダビデがすぐに自ら悔い改め
をすることができなかった。

主が預言者ナタンを遣わされ、富める人と貧しい人の話しをしても自分のことだと気づかな
かった。 ナタンによって罪をはっきり指摘されて初めて悔い改めることができた。 確かにそ
の悔い改めは深いものだった。 そのダビデの悔い改めは詩篇51編を見ればわかる。 神は
ダビデを赦された。 

たとえ罪で苦しんでいたとしても主を知らない人ならいざ知らず、ダビデは主をよく知っており、
主に愛され主を愛していた。 そのようなダビデでも明確に罪をナタンから指摘されなければ
悔い改めることができなかったことは、やはり罪は、聖霊によらなければ、真に罪を罪として
知る、悟ることができないと思われる。 

罪で苦しんだとしても聖霊によらなければ、反省の材料で終わってしまう、つまり真の悔い改め
ができない。 また、悔い改めも「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで(ローマ
2:4)
」とあるように、やはり聖霊の導きがあるから真の悔い改めができる。 神の観点での罪
の深さに気づくのは、聖霊によらなければ難しい。 いわば一方的な神のあわれみである。

この箇所からダビデを通して、人のことはよくわかっても、自分のことはわからないものである
とか人は自分に甘く、(他の)人に厳しいものであるとかダビデのような人でも罪を犯すのだか
ら我々はもっと気をつけておかなければならないなどと受け取っていた。

しかしこれら以外にも教えられたことがある。 サタンは我々クリスチャンをキリストから引き離
そうと躍起になっている。 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽く
すべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(Tペテロ5:8)」
と書かれている通りである。

ただキリストから離れるということは、未信者はそのとおりだが、クリスチャンだった人が主イエ
ス・キリストへの信仰を捨てるとか教会につながることをやめるなどと考えられる。 また、主は
弟子と群集を区分されており、弟子といわれる人でも主のことばにより離れて行った人たちが
いた。(ヨハネ福 6:66)

サタンがキリストから引き離そうとしているのは、主としっかりつながっている人たちである。 
未信者や人から見てクリスチャンと言われる人たちは、サタンにとってはもはや敵ではない。 
サタンにとって最大の敵はキリストであり真にキリストにつながる人たちである。

我々クリスチャンは、尊いキリストの救いを受けていても、パッと肉が完全になくなり、完全に変
えられているわけではない。 クリスチャンはこの地上で天の御国までの旅をしながら、主に
よって変えられていく途上の者である。 だから外側はまだまだハチャメチャなところがあるか
もしれない。 

しかし大切なのは心の奥底、霊でしっかりとキリストとつながっているかどうかである。 自分は
キリストとずっとつながっていると思っていても案外、離れている場合があり得る。 主を愛して
いる、主を信じていると言っても、離れている場合があり得る。 他のクリスチャンから見て主
のことばを行っている、主に従っていると評価されても心の奥底で、霊でキリストにつながって
いないということが有り得る。 

そうして見ると、本当に主にへりくだっているとは、必ずしも外側の、人が見える部分、たとえば
主のためにこうしている、主のことばだからああしている、主の働きをしているなど・・外側と内
側が必ずしも一致するとは一概には言えない。 外側のことは内側、心の奥底、霊でしっかり
キリストとつながっているなら、いずれ清められ変わってくる。 また主がはっきり、「・・せよ」と
ことばが語られたり、御心を確信させてくださって、聖霊の導きによって働きができるようにな
ってくる。

我々クリスチャンは、心の奥底、霊でしっかりキリストにつながること!これが重要である。 ま
た、本当につながっているかどうかは、霊的感覚、霊の見方で判断すべきものである。 それ
は真剣に求める者に主は与えてくださるであろう。 これも神からの一方的なあわれみのゆえ
の賜物である。

日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、真剣に求めて
いきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいただき、聖霊
の流れに乗っていきたいものである。 

★旧約聖書(口語訳)  箴言 20:30  
   傷つくまでに打てば悪い所は清くなり、むちで打てば心の底までも清まる。

★旧約聖書 詩篇 51:17
       神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさ
       げすまれません。




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