めんどり聖書研究会


めんどり通信/2010年1月24日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<人はうわべを見るが、主は心を見る>


★旧約聖書 第一サムエル記 16:7
   しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは
   彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

★新約聖書 マタイ による福音書 23:26
   目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくな
   ります。

●当時、律法学者、パリサイ人は旧約聖書の内容、教えに熟知していた。 律法学者の律法
の教えと解釈には権威が与えられていた。 パリサイ人は律法を厳格に守っていると自負し
ていた。 律法に「先祖達の言い伝え」を加えて多くの戒めを守ろうとし、民にも守らせていた。

律法学者、パリサイ人たちは「汚れ」は外から移ってくる。 だから外側のことに熱心だった。 
汚れが内側に入ってこないよう、罪人といわれる遊女、収税人、異邦人などから遠ざかり、人
から注目されたり、人から認められることを好んだ。 そんな律法学者、パリサイ人たちに対し
て、イエスは「偽善のあなたがたは、わざわいである。」と断罪され、彼らを退けられた。 
 
一方、福音書に登場するザアカイは、当時イスラエルでは嫌われていた職業、取税人であり、
彼はかしらであったから、その権力を使って決められた以上の税金を取って財を成し、金持ち
だった。 イエスがエリコの町に来られたとき、イエスがどんな方か見ようとしたが、大勢の人
のうえ、背の低いザアカイは群集でさえぎられてイエスを見ることが困難だった。 

しかし、イエスを一目見たいと思い、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。 するとイエス
が、ちょうどそこに来られた。 イエスは立ち止まられて、上を見上げて「ザアカイ、急いで降り
て来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。(ルカ19:5)」
と言われると、彼
は喜んでイエスを迎え入れた。 そして、食事の席で、ザアカイは主に、自分の財産の半分は
貧しい人に施し、不正の取立てをした分は4倍にして返すことを、申し上げた。 そのザアカイ
に主は「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。 人の子は、
失われた人を捜して救うために来たのです。」
と言われた。

イエスが両者に対する扱いは対照的である。 みことばの通り、「人はうわべを見るが、主は心
を見る。」
 人から見て褒められるような善い行いでも、神から見られて良しとされない場合が
ある。 人から見て褒められるような善い行いでも、神から見られたら救われた者の善行では
ない、つまり良しとされていない場合もあり得る。 

たとえばマザーテレサは世界中の人(世の人)やクリスチャンたちから賞賛を受けている。 カ
トリックからも”福者”と認められている。 彼女が行ってきたことは、我々がなかなか真似でき
るものではない。 外側から見れば すばらしいの一言に尽きる。 しかし、実は、自分は神と
の間に溝があり、自分は救われていないと知人の神父に手紙を出したと聞いたことがある。 

また、ザアカイのように外側から見れば悪いやつ、神の御心に従っていない、と見えても主に
目を留められる場合がある。 主はその人の心の奥底を見ておられる。 案外、当人も自分の
心の奥底、本性、本心に気づいていない場合もある。 しかし、主は心をそれも心の奥底を見
ておられる。 

我々は、心の底から聖められたいものである。 日々キリストと共に歩み、聖められ続け、聖
霊の流れに乗って、キリストを体験し続けていきたいものである。 内側も外側も主に「良し」と
される者になりたいものである。

そのために日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、キリ
ストとの交わりを深めていきたいものである。

★旧約聖書 詩篇 7:9
   どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神
   は、心と思いを調べられます。

 ★旧約聖書 エレミヤ書 17:10
   わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によっ
   て報いる。



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