めんどり通信/2010年1月17日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<友のためにいのちを捨てる愛> |
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★新約聖書 ヨハネによる福音書 15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。 ★新約聖書 ピリピ人への手紙 1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦し みをも賜わったのです。 ●ヨハネの福音書15章14節にイエスは「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行な うなら、あなたがたはわたしの友です。」 と言われた。 キリストは我々クリスチャンの友であ り、クリスチャンもキリストの友である。 ヨハネ15章13節に「人がその友のためにいのちを捨てる」とある。 キリストが我々の罪のため にいのちを捨ててくださった。「十字架につけられたキリスト」は福音である。 「わたしたちが神 を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供 え物として、御子をおつかわしになった。(Tヨハネ4:10)」 この神の愛、キリストの愛以上の愛 はない。 『多くの医師が証言するように、十字架刑こそあらゆる死刑の中で最も残酷な刑の方法である と言われている。 なぜなら、知覚がはっきりしている状態で、死に至るまでの時間が長いから である。(通常2〜3日) 受刑者は手足を太い無骨な釘で十字架に打ち付けられさらし者にさ れる。 手のひらと足の甲とは感覚神経の集まっている所なので、少しでも動かすと激痛が走 る。 そのため、釘を打ち付けられた時の姿勢を何とか保っていかなければならない。 しか し、腕が疲れ、体力が消耗し、その姿勢が少しでもくずれるたびに激しい痛みが走るのであ る。 さらに、ブヨが血を吸いに集まり、猛禽類やカラスなとが十字架の横木にとまって肉をむ しり取るのである。 そして、出血と脱水と、大声を上げつづけた事による衰弱とによって死ぬ まで、この激痛と苦しみと渇きが続くのである。 ほとんどの受刑者は、あまりの苦痛の為、発 狂してしまったそうである。苦痛がひどいので、それを和らげる為に没薬を混ぜたぶどう酒を 受刑者に飲ませるのが通例だった。 また、ローマ中期以降は、この十字架刑があまりにも残 酷である為、死刑の方法として廃止されてしまったのである。<インターネットより>』 主イエスは肉体の苦しみ、痛みを没薬を混ぜたぶどう酒で和らげることをなさらなかった。 十 分過ぎるくらいキリストは肉体においても魂、心においても死の苦痛を受けられた。 我々の想 像に絶するものである。 外側も内側も悶絶躄地(もんぜつびゃくじ)の苦しみを罪の無い方が ただ我々を救うために受けられたのである。 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに なったのですか。(マタイ27:46,マルコ15:34)」との叫びは、肉体の苦痛だけでなく滅びの下に ある全人類の魂の底からの叫びである。 クリスチャンはこの主イエス・キリストの十字架の死 による罪の赦しの恵みを決して忘れてはならない。 さて一方で、我々人がその友、キリストのためにいのちを捨てるという、人の様々な愛の中で これより大きい愛はないとも読み取れる。 キリストのためにいのちを捨てる、すなわち「殉教」 である。 最初の殉教者ステパノから今日に至るまで多くのクリスチャンが殉教してきた。 「キリストのためにいのちを捨てる」というのは、なかなか難しいものだろうと思われる。 著者 が信仰を持った当初、主の愛に感謝し、キリストのために命を捨てることができる、と思ったこ とがある。 主の愛を知って死の恐怖がなくなっていたからである。 死とは肉体の死であっ て、霊はキリストとともに永遠に生きることができると教えられていた。 ただ、当時、思ったことは「肉体の痛み、苦しさなく一瞬にして永遠の御国に入らせていただき たい」ということであった。 しかし、ヨハネ15章13節を読んだり、過去の殉教者のことを調べる うち、そんな自分が恥ずかしいと思ったものだ。 日本で最初の殉教者は1597年の26聖人の殉教であが、簡単に記すと豊臣秀吉は、キリスト教 を迫害し、京都、大坂で24人を捕らえ(最終26人となる)、長崎の西坂の丘で殺すように命じ た。 殉教者たちは左の耳たぶを切られ、冬のさなか大坂から長崎までの約8百キロにわたる 長い距離を、約1ヶ月ほど各地で見せしめのため引き回しにあいながら連れて行かれた。 最年長65歳から最年少で12歳の少年の26名は十字架にかけられた。 十字架に至るまで何 度もキリストを捨てよ、信仰を捨てよ、さらば処刑も免除されて許される、命も助かるなどとの 様々な試みを受けたが、誰一人、その声に乗せられる者はいなかった。 そしてほとんどの殉 教者たちは鮮血とともに瞬時にして息が絶えたという。 しかし不十分と思われたものは、喉を もう一突きされ、とどめを刺されたという。 長い歴史の中、多くの殉教者が出たが、ほとんど多くの者たちは、26聖人同様に肉体の苦痛 を伴っているようである。 しかし肉体の苦痛よりもキリストへの愛の方が大きい。 だから殉 教者たちは神を賛美しながら、祈りながら、最後の力を振り絞って見物に来ている人たちに福 音を伝えながら、死んでいった。 「友(イエス・キリスト)のためにいのちを捨てる」ことは、苦しみも伴ってくることであろう。 共通 することは殉教者たちの心は平安であるということだ。 これはやはり殉教の賜物、選びがあ るから、そのような苦痛にも耐えられるのではないかと思う。 主からそのような賜物なり選び なりを受けることができるくらい、清められたいものである。 ただ主が定められた通りの道を 歩んで行けることを願う。 さて、神の方が我々を愛してくださったとあるが、本当にその通りである。 殉教者でもすごいと 思うのに、キリストはやはりあわれみ深い愛のお方であられる。 だからクリスチャンはクリス チャン(キリストに従う者という意味)の名の通り、肉体の殉教でなくとも肉の思い、肉の行な い、肉の欲望、すなわち生まれながらのものを十字架につけていき、十字架のキリストを想 い、復活されたキリストを(霊の目で)見て歩んで生きたいものである。 ★新約聖書 マタイによる福音書 16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自 分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 ★新約聖書 第一ヨハネの手紙 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え 物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 |
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