めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年12月6日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<「神の摂理」に生きる、すなわち「聖霊の流れに乗って生きる」>


★新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
   神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべて
       のことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

★旧約聖書  エゼキエル書 47:5
       彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げる
        ほどの水となり、渡ることのできない川となった。

●聖書に登場する人物の中で主が”良し”とされた人たちの共通点はみな、神からの訓練、試
練を受けていることである。 失敗や孤独や裏切りに会うなど逆境の経験を味わっていること
である。 旧約のヤコブ、モーセ、ダビデ、新約のペテロ、パウロ、・・・。 しかしこうした経験は
何もクリスチャンでなくても経験する者も多い。 ただ真のクリスチャンと未信者には違いがあ
る。 

それは、その事柄に主なる神が介入されているかどうかである。 主なる神が介入されている
ときには、主が導かれる。 たとえそれらの事柄が一見、不幸な出来事のように見えても必ず
後には益になる。 そして信仰は試され鍛え上げられていく。 傍から見たなら、その生き方
は、波乱万丈の生涯と見える。 それでも確実に天の御国へ向かって進んでいる。 

「神が介入される」というとき、クリスチャン自身が主によりすがって、神に介入していただくとい
う意思表示、すなわち求めは必要である。 ただイエス・キリストを信じてクリスチャンと呼ばれ
ても少しも神により頼まない、祈らない、求めないでは、主なる神は、その人の人生、様々な
ことに介入しようがない。 詩篇 9:10には「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あな
たはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」
とありゼパニヤ書1:6には「また、
主に従うことをやめ、主を尋ね求めず、主を求めない者どもを断ち滅ぼす。」
と書かれている。   

さて、ヨセフの場合。 17歳のとき、見た二つの夢を発端に、兄たちに恨まれてエジプトに奴隷
として売られた。 その後も濡れ衣を着せられて投獄された。 しかし、事あるごとにヨセフの神
に対する信仰は揺るがず、神と神のことばを基準に物事を考え行動した。 それゆえ、神は彼
を離れず、そのなすところは皆栄えた。(詩篇1:3)。 

牢獄から出された後、エジプトの王パロの前に立ち、彼の見た夢を解き明かし、宰相に任じら
れた。 その頃、全世界に飢饉があったが、ヨセフは裏切った兄弟たちを飢饉の中から助け迎
え入れた。 この時のヨセフの言葉は「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔やむこともいり
ません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。(創世45:
5)」
また「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日の
ように多くの民の命を救おうと計らわれました。(創世50:20)」
である。  

このときヨセフは神の大いなる救いのご計画を語った。 やがて父ヤコブとも再会し、父を看取
り、兄弟たちの世話を最後までした。 このことは、ヨセフが青年の時に見た夢の実現だった。
ヨセフが逆境と試練の中を通りながらも、神の導きと守りを求め、神を信頼し続けることができ
たのは、一重に神のあわれみがあったからである。 信仰も心も強くしていただいたのは、た
だただ神の恵みである。 そのことをヨセフはよく知っていた。 だから常にへりくだっていた。

ヨセフは、すべてのことは神の御許しがなければ起こりえないことを信じ、絶えず、神と神のこ
とばを第一に生きていたから、悪を仕組んだ人々に対して怒りや苦い思いで対決することな
く、許し受け入れることができた。 ”善”を施すことができた。 

「忘れかけていた大切なこと(渡辺和子著)」の本の中に、「運命は冷たいけれど摂理はあた
たかい」ということばがあるという。 確かに表面を見れば困難や苦難と見える事柄は不幸な
出来事と映る。 そういうことが次々起こるならば、「これも運命だ、仕方がない」という呟きが
出てきても当然だろう。 

しかし、主イエス・キリストに信頼するなら”運命”は「神の摂理」となる。 「神の摂理」には失
望はない。(ローマ10:11,Tペテロ2:6) 神の愛とあわれみがある。 「神の摂理」に生きると
は、聖霊の流れに乗っているということである。 聖霊の導きに従っているということである。

ヨセフもダビデもヤコブ、モーセ、パウロ、ペテロも皆、神の摂理に生きた。 聖霊の流れに
乗った。 それゆえ、自分の人生、投げやりにならなかった。 他人の悪意を恨まなかった。 
自分に悪を行った者のことも神の摂理に任せた。 このような彼らの生きる姿勢を身につけた
いものである。 聖霊の流れに乗って生きたいものである。 神の摂理に生きるものでありた
いものである。

そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、
神により頼んでいきたいものである。 そしてキリストとの交わりを深くしていき、主の御心を
ますます知って主の喜ばれる者になりたいものである。

★旧約聖書  詩篇 34:19,20
       正しい者の悩みは多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。主は、彼の骨を
       ことごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。 

★新約聖書  ヘブル人への手紙(口語訳) 12:11
       すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。し
       かし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。




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