めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年11月22日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<前が見えなくても聖霊の導きのままに進め>



★新約聖書 マタイ による福音書 2:9~11
       彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、
       ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。 その星を見て、彼らは
       この上もなく喜んだ。 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひ
       れ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

●「東方の博士たち」については有名である。 「イエスの誕生」を「救い主の誕生」とわかって
イエスに出会った人たちである。 イエスがヘロデの時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれ
になった。 当時、世界には世界的メシヤ待望の気運が満ちていたという。 メシヤ(キリスト=
救い主)を待望し、約束を知っていたユダヤ人たちは、まさか自分たちの救い主が、馬小屋で
生まれるとは思ってもみなかった。

旧約聖書ミカ書5:2「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだ
が、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。・・・」
とある。 
またイザヤ7:14には「・・・見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマ
ヌエル』と名づける。」
とあり、 「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近では
ない。ヤコブから一つの星が上り、・・・(民数記24:17)
」とある。 他イザヤ7:14、イザヤ11:1、イ
ザヤ9:2、イザヤ42:1〜4
などメシヤ預言に関することばがたくさんある。 ユダヤ人たちはそれ
らのことばをよく知っていた。
 
そして時が来て、約束どおりメシヤは誕生してくださった。 イエスの誕生は奇跡だが、神がマ
リアに処女懐胎されたときから始まっていた。 この奇跡を当時のユダヤ人たちは見ることが
できなかった。 結局、神のことばである聖書を信じていなかったということである。 彼らは旧
約聖書を持ってはいたが、聖書に対して自分たちの解釈に頼るという不誠実であり、心がかた
くなだったと言えよう。

一方、東方の博士は「その方の星」を見て、その星に導かれて幼子イエスに出会うことができ
た。 東方の博士とはギリシャ語では、魔術師、占星術師、今日でいう天文学者を指すようで
ある。 だからと言って占星術でその星を見つけたのではない。 聖書からその星のことを知
り、その星に与えられた神の約束を信じたのである。 聖書のことばを約束として知っていただ
けでなく、へりくだった心で信じていたのである。 

東方の博士たちがエルサレムを出てベツレヘムに出かけて行くと、東方で見た星が彼らを先
導した。 そしてついに彼らは幼子イエスがおられる所に導かれ、「そしてその家にはいって、
母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳
香、没薬を贈り物としてささげた。」
マタイ2章に書かれている。

金は信仰をあらわすので黄金は、尊い純粋な信仰を表す。 乳香は祈りを表し(詩篇141:2)
没薬は死体の防腐剤。 十字架に関係する。 すなわち我々の肉が砕かれた自分自身をささ
げることを表しているともいえる。 黄金、乳香、没薬は、イエスの誕生という奇跡を前にして人
が、神にささげるのに一番ふさわしいものであり、神が喜ばれるものであろう。 また黄金、乳
香、没薬をささげることができる者が奇跡を見ることができるのかもしれない。

とにかく大切なことは博士たちが救い主の誕生という奇跡を目の当たりにするために、神の約
束のみことばを信じ続け、ひたすら先導してくれる星を見続け、従い続けたということである。 
星から少しでも目を離したならば、奇跡を見ることができなかったであろう。 彼らはベツレヘ
ムへ行くにしても、ベツレヘムのどこへ行けばよいかわからなかった。 目的地はわかっても
進む道を前もって知ることはできなかった。 しかし、ただ星だけを頼りに進んで行った。 そし
てイエスの奇跡の誕生を見て、この上もなく喜び、礼拝をささげたのである。

今日、我々を先導してくださるのは聖霊である。 当時の博士のように肉眼では見ることはでき
ないが、信仰の目、霊の目で見ることができる。 感じることができる。 日々我々の周りで起
こる出来事、物事を信仰の目、霊の目で見るならば”主は生きておられる”ことがわかる。 

人生において、最終目的地は天の御国とわかっていても、そこまで行くのに全く前が見えない
ことが多い。 しかし主を霊の目で見続け、主のことばを信仰の目で捉え続けていくならば、最
終目的地まで聖霊は導いてくださる。 

また道の途中において、真に主に求める者には、主はことばを語ってくださり、語られたことば
が成就されるという、いわばいろいろな奇跡を見せてくださることもあろう。 時には奇跡とよば
れるようなことを体験させてくださることもあろう。 そのときには、へりくだって自分自身を主に
ささげて礼拝したいものである。 いずれにしても重要なことは聖霊の流れに乗る、つまり前が
見えなくても主を見続けてどこまでも主に従っていくことである。 

そのため日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、神に
依り頼んでいきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいた
だき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 5:2
        またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた
        私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

★新約聖書 第一ペテロの手紙 1:8
        あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけ
        れども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。



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