めんどり通信/2009年11月8日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<キリストを愛する> |
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★新約聖書 マルコによる福音書 16:9 〔さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分 を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。 ★新約聖書 マルコによる福音書 12:30,31 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命 令は、ほかにありません。」 ●”愛する”というとき、旧約聖書に登場してくるダビデとヨナタンの関係がクリスチャンにとって 大いに学べるところであろう。 詳細はTUサムエル記に記されている。 「ヨナタンは、自分と 同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、 それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。 (Tサムエル 18:3,4)」と記されている。 ヨナタンは自分のことはさておき、ただダビデのことだけを考えた。 そして、戦士として最も大 事な道具であり自分の愛着のあるものをダビデに与えた。 それはすなわち自分のすべてを ダビデに与えたことと言える。 本来クリスチャンも、真のダビデであるキリストに対してそうあ るべきだ。 愛は、その愛する者のために自分自身さえも喜んで与えること、と言える。 その最大の愛を神は我々に与えてくださった。 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たち を愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。(Tヨハネ4:1 0)」と書かれているとおりである。 ”愛する”ということを、新約聖書に登場してくるマグダラのマリヤによっても大いに学ぶことが できる。 ただ、マグダラのマリヤについては聖書に詳しく記されていない。 しかし一番注目す べき点は、彼女が最初に復活の主にお会いしたということである。 クリスチャンにとってキリストの復活というのは決して欠くことのできない、大切な出来事であ る。 イエス・キリストの十字架での身代わりの死と3日目の復活によって、イエスは神の御子 であることを証明した。 キリストの復活は罪の赦しの根拠であり、復活無しに罪の赦し、す なわち救いはない。 だから復活信仰は極めて重要である。 その復活の主にマグダラのマリヤは最初に会った。 「だれもみな自分自身のことを求めるだ けで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。(ピリピ2:21)」「わたしを愛する者を、わたし は愛する。(箴言8:17 )」と聖書に書かれている。 また神の戒めの最も重要で、かつ、ある意 味聖書のすべての教えがかかっていると思われる冒頭のマルコによる福音書 12:30,31のみこ とばにも結局、神を、人を”愛する”ことの命令が書かれている。 主を愛し、主に愛されたから復活の主にお会いできるとも言えよう。 マグダラのマリヤは、主 に七つの悪霊を追い出していただいた。 ただ単に追い出してもらっただけということではない と思われる。 福音書の中で、多くの人たちが悪霊を追い出していただいたり病をいやしてい ただいたりした。 しかし、多くのユダヤ人たちはイエスを十字架につける側にまわった。 マグダラのマリヤはダビデを愛したヨナタンのように、主にすべてをささげていたと考えられる。 悪霊を追い出していただくまでにも様々な苦しみや痛み、渇きを体験してきたのではないかと 考えられる。 そのたび祈りに祈って神の救いを求めてきたのかもしれない。 いろいろな出来 事、経験、体験を通りながら、悪霊につかれてしまうような肉(生まれつきの性質など)をもそぎ 落とされる準備がなされていたのかもしれない。 そんな彼女が主にお会いした。 7つの悪霊を追い出していただいた。 そのときから、マグダ ラのマリヤは、ひたすら主イエスだけを見て、主を愛し、主にどこまでも従って行った。 当時も 今日も、主にいやされたり悪霊を追い出してもらったという人がいる。 しかし、奇蹟を体験した 人がみな最後まで主を愛し、主に従って行ったとはいえない。 単に奇蹟を体験するというので はなく、やはりその人の真剣な求めと色々な経験体験は、主を深く愛するうえでの重要なポイ ントと言えそうである。 また、奇蹟以上に奇蹟(いやしや悪霊の追い出し他)を行われた主を 見続けることはもっと重要である。 主は12弟子に「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた 人たちです。(ルカ22:28)」 と言われたが、マグダラのマリヤは、7つの悪霊を追い出していた だいて以来イエスに付き従う弟子たちの一行に加わったので、このことばから、その後も弟子 たちと同様、様々な試練があったようであるが、十字架まで主イエスについていった。 主のそばで「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、彼女の神である主を愛し続 けた。 主の十字架を前に弟子たちが逃げ去ったものをマグダラのマリヤは他の女性たちとと もに最後まで主イエスを見守り、離れなかった。 イエスをひたすら愛し、十字架の後、3日目 の朝早く空っぽの墓の前で泣いていた。 復活の主はそのマグダラのマリヤに最初にご自身 を現された。 聖書にははっきりとは記されていないのだが、もしかしたらマグダラのマリヤは”祈りの人”だっ たのではないかと感じるのは著者だけだろうか。 我々は”祈り”によって、主と交わる。 聖霊 に触れられる。 主と深く交わっている者が、主を深く愛せるのではないだろうか。 また、主 の愛がわかるのではないだろうか。 ただ、”祈り”は、祈っていたら何も無く自然と変わってくるというものではない。 心から祈って いたら、真に祈っているからこそ、主はその人に様々な経験を通らせる。 色々なところを通ら せる。 傍から見たら たわいもない出来事、何の変哲もないことと見えることもあろうが、それ らを通して主がその人を変えよう、教えようとされていることがある。 真に祈っていたら、日々 の生活の色々な事を通して主が語っておられることが、少しずつ少しずつ、わかるようになっ てくる。 主の語りかけを(霊の)耳で聞けるようになり、主との深い交わりをして、主を深く深く愛する者 となりたいものである。 そのため日々、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねる こと、絶えず真剣に心から祈ること、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしてい きたいものである。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生き るにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。 |
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