めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年11月1日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神に喜ばれる者の神の武具>


★新約聖書  エペソ人への手紙 6:14~18
       では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足に
      は平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさ
       い。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな   消すことができます。 救いのかぶとをか
       ぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。 すべての祈りと願いを
      用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、
       すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

旧約聖書サムエル記第一の31章歴代史第一10章にイスラエルの初代王サウルの最期
について書かれている。 ペリシテ人との戦いで、イスラエル軍は敗北しギルボア山でほとんど
が戦死した。 その時、サウルの三人の息子たちも戦死し、サウルも自分の剣の上にうつぶ
せに倒れて悲惨な最期を遂げた。 翌日、ペリシテ人はサウルの武具をはぎ取り、ペリシテの
神であった「アシュタロテ」の宮に奉納し、死体はベテ・シャンの城壁にさらした。

さてダビデはキリストの型であると言われているが、サウルもサタンの型であると捉えられるよ
うである。(参照:HPエレミヤの部屋NO,635,644) 何事も主なる神とサタンや悪霊は正反対で
ある。 教会、クリスチャンの生涯は戦いの生涯である。 それは人間との戦いではなく、悪
魔、天にいるもろもろの悪霊との戦いである。 そして戦いに必要なのは武具だが、悪魔は武
具を持つ。(エペソ6:16) だからクリスチャンにとっても武具は必要なものであり、その武具は
エペソ人への手紙に書かれている。 

真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の大盾、救いのかぶと、神のことば、祈り
の7つである。 サウルの武具は神が忌み嫌われる偶像の宮にささげられた。 それは悪霊の
喜ぶ武具であったと言えよう。 サウルを通してクリスチャンの我々に教えられることは、7つの
神の武具を正しく身につけていなければならないということであろう。

「真理の帯を締め」つまり「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ福14:6)」
言われたイエス・キリストをしっかり巻く、キリストにしっかりつながるということであろう。 

「正義の胸当てを着け」つまり「福音のうちには神の義が啓示されていて(ローマ人1:17)」「すな
わち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義(ローマ人3:22)」
などの御ことばから、罪人をも赦すことの出来る福音の宣告の中に、徹底的な神の正しさが表
れていると受け取れるが、人が神の正義に立ち、神との正しい関係に立つということであろう。 

「平和の福音の備えをはき」つまり「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美
しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が
王となる。」とシオンに言う者の足は。(イザヤ52:7 )」
と聖書にあるが、良い知らせを運んでい
るなら平和がある。 そこには強制、押し付けはない。 強制、押し付けになると争いが生じる
ものである。

「信仰の大盾を取り」つまり「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできませ
ん。(ヨハネ福3:27)」「義人は信仰によって生きる。(ローマ1:17 )」
とあるように、信仰は、神か
らの賜物だが、キリストの信仰を成長させていくときに大盾となる。 「主はすべて彼に身を避
ける者の盾。」(詩篇18:30)」
と書かれているように、絶えずその大盾を自分の前に構えて、不
信仰や疑い、恐れの火矢から身を守れということであろう。

救いのかぶとをかぶり」つまりイエスという名は「神は救い(神は救う)」という意味があるが、
そのイエスの救いをきちんと受ける、しっかりと理解し確信し体験してキリストの支配の下に留
まる。 また頭にかぶり続けて、絶えずキリストにあって新しい思いを与えていただくということ
であろう。

御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」つまり「ことばは神であった。(ヨハネ福
1:1 )」「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のある
ものです。(Uコリント10:4 )」
とあるようにクリスチャンが、正しく用いるなら、それは力となって
働く。 そのためにも、みことばをどのように受け取るかによって違ってくる。 主が言わんとさ
れている通り、つまり主の正しさで正しく受け取るということは重要である。

「どんなときにも御霊によって祈りなさい」つまり「聖霊によって祈り(ユダ1:20)」「誘惑に陥らな
いように、目を覚まして、祈り続けなさい。(マルコ14:38)」
とあるように、どんなときも絶えず唯
一の父なる神に祈り、唯一の主なるイエス・キリストに祈り続けること。 しかも自分の肉的な
祈りや気まぐれの祈り、思い出したようにたまーに祈るというのではなく、「どんな状況下におい
ても」「どんな時にも絶えず」聖霊の導きによって祈ることが重要である。 祈りは12弟子たち
のように学び身につけていくものであり、身についてゆくものである。 主に従っていくとき、
様々な(訓練、試練となるような)体験をし、そうして深みから祈れるようになるものである。

すべての武具を装備したキリストの兵士は、祈りをもって完成される。 また「祈り」は主を信じ
た最初から必要なものであり、神との交わりには欠かせない。 祈りによって神と交わる。 ま
た「祈り」は防具であるとともに攻撃用の武器でもある。 どの武具もみな重要であるが、とりわ
け「祈り」は、 7つの武具の中でも決定的に重要な武具、武器であろうと思われる

サウルの場合、悪霊の喜ぶ武具であったから神に忌み嫌われる偶像の宮にささげられたが、
我々真のクリスチャンでありたいと願う者たちは、主の喜ばれる武具を身につけ、祈りをもっ
てこの地上を歩んでいきたいものである。 

そのため日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、神に
依り頼んでいきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいた
だき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★新約聖書(口語訳)  ガラテヤ人への手紙 1:10
       今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。
        あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとして
       いるとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。

★新約聖書 ローマ人への手紙 13:12   
       夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武
      具を着けようではありませんか。



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