めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年10月25日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神のことばが実現されるのに、神の方法、神の時、神の配慮がある>



★旧約聖書 イザヤ書 45:18
       天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立て
       られた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まこ
       とに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。

★新約聖書 ルカ による福音書 1:45
   主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

●出エジプトについての意味合いは、終末に変質するであろう教会から出る、であるが<参
考:めんどり通信/2008年12月28日、エレミヤの部屋HPなど>、違う観点から見て教えられ
ることもある。 神はイスラエル人の苦しみを知っておられ、彼らの嘆き叫びを聞かれた。(出
エジプト記2:23,24)

主なる神が、一旦、ことばを語られたなら必ず成就される。 実行される。 完了される。 た
だ、そのためにはイスラエル人たちが主なる神に叫ぶ必要があった。 人間は平穏無事に生
きているときには、感謝こそすれど、神に対して悲痛な叫びを上げるということがないものであ
ろう。 また悲痛さ苦難困難を経験していない平穏無事の人生の中での感謝は、ともすれば
浅いものになりがちである。 

当時のイスラエル人たちの叫びは、日々の生活の心配というだけでなく彼らの生死に係わるこ
とであった。 人によっては、人生において実際の生死に係わることでなくても、生死に係わる
に等しいくらいの嘆き苦難困難があろう。 いわばそこからの叫び、神への心底からの叫び
は、主に届くものである。 

さて、イスラエルの民たちの叫びを聞かれた神は、ご自身の約束、契約を思い起こされたと記
されている。(出エジプト 2:24) モーセが立てられ、イスラエル人を救い出すという良き知らせ
を、民は聞いただけでなく、主からのしるしも見た。 民は、主のことばを信じ、礼拝した。 

ところが、人という者は、「救い出す」と語られたなら、すぐさま実行してくださる、状況が今より
悪くなることはない、良くなると思いがちである。 そのような人の思いとは裏腹に、パロはイス
ラエル人たちの労働をさらに過酷なものとした。 それまではわらを支給されてのレンガ作り
だったが、出エジプトのことを知るとすぐさま、わらの支給を止め、しかしれんがの出来上がり
量はそれまでと同じ量を課した。 「救い出す」と主のことばが語られてから状況が悪くなった
のである。

ひざまずいて礼拝したイスラエル人たちだったが、状況が悪くなるとモーセとアロンを非難し
た。(出エジプト 2:21)。 それを受けてモーセも主に「パロはこの民に害を与えているのにあな
たは、民を少しも救い出そうとはなさいません。(出エジプト 5:23)」
と言っている。 

しかし主なる神には神のやり方、方法がある。 神の時がある。 その神の方法の中には神
の配慮がある。 主はイスラエル人を出エジプトさせるのに、モーセを用いてパロと交渉させ
ながら十の災い(不思議)を起された。 その間、主は「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにす
る」
と言われた。 主はいたずらにパロの心をかたくなにされたのではなく、パロの本性を見て
おられたと思われる。 主はサタンや悪霊やパロのような者さえ、ご自身のご計画の遂行の
ために用いられる。 
 
そして、十の災い(不思議)を起されたのは、エジプトにもイスラエル人にも全能の神が”主”で
あることを知らせるためであった。(出エジプト6:3,6,7:5) 特にイスラエル人には明確に「わた
しが主である」
ということを示そうとされた。 また、十の災い(不思議)を民にも見せ体験させる
ことにより「わたしが主である」と、主としもべの関係を確固たるものにしようとされた。

そうすればイスラエル人が主の奇蹟を厳粛に受け止めることができるようになり、不思議や奇
蹟に注目する以上に、それを現される主なる神に目を向けることができるようになる。 これが
神の配慮であろうと思われる。

人は とかくすばらしい神の業である奇蹟や不思議やしるしを見たとき、奇蹟や不思議に囚わ
れがちになる傾向が強い。 神の業と主なる神を、最初ほめたたえていても時間とともに主か
ら目も心も離れがちになる可能性がある。 本当に第一に目を向けなければならないのは、
主と主のことばである。 

出エジプトさせていただいた神の民イスラエル人たちも、十の不思議な神の業や荒野でその
他、様々な奇蹟や不思議を見たり体験させていただいたりしたが、結局、神の約束の乳と蜜
の流れるカナンの地に入れたのは、出エジプト時の民の中ではヨシュアとカレブだけで、後
は荒野で生まれた民だった。 出エジプト時の民の残りは、不信仰と不従順のため全員荒野
で死亡した。 この神の約束の乳と蜜の流れるカナンの地とは、クリスチャンが目指している天
の御国のたとえであろうと思われる。

「わたしが主である」といわれる主と我々クリスチャンは、主としもべの関係である。 この関係
を確実に確固たるものにしておくことが重要であると思われる。 そのためにも日々絶えず、主
イエス・キリストから目を離さず、主の御前にへりくだって祈り、神に依り頼んでいきたいもので
ある。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいただき、聖霊の流れに乗って
いきたいものである。 

★新約聖書 ローマ人への手紙 4:19~21
       アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの
       胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって
       神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
       神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

★新約聖書 第二テモテの手紙 2:8
       私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キ
        リストを、いつも思っていなさい。


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