めんどり通信/2009年10月11日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<一瞬の心の思いでも点検しなければならないときがある> |
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★旧約聖書 詩篇 19:12~14 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお 赦しください。 あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませ んように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。 私の 口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い 主、主よ。 ●福音書を見てみると、パリサイ人は事あるごとにイエスを非難している。 そこで主は言わ れた。 「心に満ちていることを口が話すのです。(マタイ12:34)」と。 人は心の中で「思い」と か「考え」とかを言っている。 話している。 外側に表れる言葉だけでなく内側の言葉がある。 いずれにしても我々クリスチャンは、内側も外側も清められる必要がある。 神は人間をある意味公平に扱われる。 マタイ20章のたとえで、ぶどう園の主人が労務者を雇 い、朝6時、9時、12時、15時、17時に、それぞれ1日1デナリの賃金の約束をした。 最初から 働いた人、わずか1時間働いた人、様々であるが、午後6時になって、最後に来た人から1デナ リ支払われた。 神の恵み、救いは、求めるなら何人にも公平に与えられる。 またおのおの能力に応じて違う量のタラントを与えられるが、与えられたタラントと同量のタラ ントを増やせば「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、 私はあなたにたくさんの物を任せよう。・・・(マタイ25:21,23) 」と公平に言われた。 しかし一方で神はある意味、区分をなさっておられる。 言い方を変えれば公平ではない。 た とえば弟子と群集である。 弟子には天の御国の奥義を知ることが許されているが、群集には 許されていない。(マタイ13:11) また、「太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあり ます。個々の星によって栄光が違います。(Tコリント15:41 )」 と書かれている。 クリスチャンはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官である。 すべての器官が同じ 働きはしないし、かっこうの良い器官、見ばえのしない器官がある。 しかし、ともすれば人は自分より上と思われる者を見ると「ねたみ」、下と思われる者を見ると 同情という言葉を使いながら、「見下す」、という思いがよぎる可能性がある。 いつもいつも、 そのような思いが出てきていれば、自分でもわかるだろうから、クリスチャンであるならすぐに 悔い改めたり清めの祈りをしたりするであろう。 ただ、そのような思いが一瞬よぎって、いつの間にか心の奥底に隠れてしまい、その人がその ような思いが内側にあることに気づかないということが有り得る。 しかし、この一瞬の思いに 悪霊が働いて、気づけば自分の思いがにっちもさっちもいかなくなってしまうということがある。 自分の思いが、にっちもさっちもいかないと気づくうちは、まだいいかもしれないが、全く気づか ず、むしろ自分は主に従っている、みこころを行っている、と思い込む場合がある。 律法学者やパリサイ人たちは、イエスを十字架にかけることは、むしろ正しいこと、神に仕えて いることと思い込んでいた。 彼らはとんでもない間違いをしでかしたのだが、主はいつも彼ら の心の思いを知って「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」と言われた。(マタイ9:4) 彼らのようになるまでには、それまで主に対することごとくの時に思う思い、「ねたみ」「見下し」 などをそのままにしておいたため、積み重なって頑なになってしまったと思われる。 彼らは自 分たちの思いは、悪い思いと思っていなかった。 彼らの行く末は、AD70年ローマ帝国によっ てエルサレムが崩壊・炎上したとき、滅ぼされた。 クリスチャンであってもこのようなことになる可能性がある。 多くのクリスチャンは、キリストを 受け入れる前のように、目の前の価値と宝と、生き甲斐をひたすら求めて今を生きる、というこ とはないと思われるが、それでも自分の心の一瞬の思いにも気をつけなければならない。 2 千年前より今の時代は、悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めなが ら、歩き回っている。 (Tペテロ5:8) イスカリオテのユダはイエスが夜通し祈られて選んだ12弟子の一人であった。 しかし、イエス を裏切った。 「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思い を入れていた(ヨハネ福13:2)」と書かれているが、イエスと寝食を共にしていた弟子である。 しかし、主のことば、行動の一つ一つに対してユダの思いがあったと思われる。 その思いは 肉の思い、すなわち、悪い考え、盗み、貪欲、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさなどであったと 思われる。(マルコ7:21~23) 肉の思いは死であり、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、 神の律法に従いえない。(ローマ8:6,7) 彼の内から出て来る一瞬一瞬の思いを対処せずに野放しにしていた結果、そこに悪霊がつけ こんできて抜き差しなら ない状態になったと思われる。 それが命取りになってしまった。 永 遠の命を失うことになった。 我々クリスチャンもイスカリオテのユダのようになる危険性は大 いにある。 人の内側の思いは案外、深いものである。(詩篇64:6) そして自分ではその思いに案外、気 づかないことが多い。 常々、思っている思いならば、自分でも気づくが、一瞬の思いや深く心 の奥に潜んでしまった思いは、自分で気づくのは難しい。 その思いが主の喜ばれない思いな らば大変なことである。 しかし主は我々の心の中までご存知である。 そして正しい神は、 我々の心と思いを調べられる。(詩篇7:9) その主と深い交わりを持つ必要がある。 キリストとしっかりつながっており、絶えず交わりをしているならば、一瞬よぎった思いが主に喜 ばれない思いであるなら、聖霊が気づかせてくださる。 気づかせていただいたならば、へりく だって悔い改め祈ることだ。 クリスチャンといえど完全な人はいない。 肉は働くし、罪を犯し てしまうときもあろう。 しかし、深くキリストにつながっているならば、主の喜ばれない一瞬の思 いを逃すことはなくなっていく。 そうして、ますますキリストとのつながりが深くなってくる。 キリストとのつながりがしっかりするならば、世が巧妙に入り込もうとしても見破ることができ、 パリサイ人のように神に仕えていると思い込むことから守られる。 聖霊が導いてくださる。 そして主の喜ばれる者にしていただける。(Uコリント5:9) そして、その人は活き活き生きるこ とができる。 主の望まれるように仕えることができる。 天の御国への道をまっすぐに歩むこ とができる。 主の御前にへりくだって祈りつつ思いを点検し、日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さ ず、主に尋ねること、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神 のことばと信じて聖書を読み、主からことばをいただき、聖霊の流れに乗っていきたいもので ある。 ★旧約聖書 詩篇 104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。 ★新約聖書 ローマ人への手紙 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思 うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与え てくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。 |
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