めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年9月20日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神がなさることの中には、人の思いもよらないことがある>



★旧約聖書 出エジプト記 15:11
       主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖
   であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。

★旧約聖書  詩篇 32:8
       わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を
       留めて、助言を与えよう。

サムエル記列王記、歴代誌詩篇を見るとダビデの生涯について知ることができる。 T
サムエル記27章
から29章にこのような記述がある。 サウル王が自分を殺すことをやめないと
判断したダビデは、自分と一緒にいる600人を連れて、サウルが追って来ることのできない敵、
ペリシテ人の地(アキシュのもと)に住むことにした。 それでサウルは、ダビデを二度と追跡し
なくなった。

ガテに逃げた後、ガテの王アキシュはダビデにツィケラグを与え、ダビデはそこに1年4ヶ月住
み、周りの異邦の民を襲った。 そしてアキシュには成果を偽って報告した。 アキシュはダビ
デを信用した。 そしてペリシテ人とイスラエル人の戦いでアキシュはダビデを自分の護衛に任
命しようとした。 しかしペリシテ人の領主たちから、ダビデは軍務を解任されたので、同胞イス
ラエル人と戦わずにすんだ。

この箇所からのダビデに対する見方は、ダビデはサウル王からの長い逃亡生活に疲れ信仰
が弱くなっていた、主を第一とせず、勝手にペリシテの地に逃れてから嘘に嘘を重ね、結局ペ
リシテとイスラエルの板ばさみになってしまった(自業自得)、神に聞くこともせず自分で勝手に
判断して、敵国ペリシテの地に逃れたのですべてがちくはぐになってきた(やはり自業自得)、
アキシュに自らの誠実さを主張しているが、彼は偽善者そのものだ、などということが多い。
そしてそのようなダビデを神は、見捨てなかった、主はあわれみ深いお方、神はすばらしい方
など締めくくっているメッセージが多いように思われる。

しかし、こういう見方はできないだろうか? 「詩篇」の本質は、ヘブル語で「賛美の書」と言わ
れ、その多くはダビデが書いたものである。 ダビデの関係の歌を合わせると全詩篇の5分の4
にもなる。 神への感謝、祈り、へりくだり、賛美、信頼、悔い改め、心情などが書かれている。 

また、ダビデは神に深く愛され、祝福された人である。 悲劇のどん底の中でも、神に深く愛さ
れ多く慰めをうけた人である。 ダビデの王権はとこしえに続くという神の約束さえも得た人で
ある。 確かに弱さのゆえ大罪を犯してしまったこともある。 一般的、道徳的に見るならば決
して褒められた人ではないことも多いかもしれない。 栄光も悲劇も味わった人、波瀾万丈の
人生を生きた人である。 

そして、ダビデといえば、あくまでも神を第一とし、神に従った人、従い通した人である。 サウ
ルを2度も打つチャンスが与えられても「私は主に油注がれた方に手をかけることはできない
(Tサムエル記26:11)」
と神の権威に従った人である。 同族イスラエルの民を想った人であ
る。  だからそのようなダビデが自分の命かわいさの理由だけでイスラエルの宿敵の地ペリ
シテに身を寄せたとは思えない。 同胞イスラエル人が嫌うことを 自分の命を救うために行う
とは考えられない。 アキシュの前で気違いを装い、一度はそこから去ったのである。 「ほか
に道はない」とはいえど自分の肉の判断で、再びアキシュのところへ行くとは考えられない。 

ダビデが心の中で言った「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシ
テ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内
で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。(Tサムエル27
:1)」
ということばは、もしかしたら、神がそのような思いを与えられたか、そう思うことを神が許
されたか、いやむしろ上からの知恵だったと考えられないだろうか。 事実、このダビデのこと
ば(思惑)通り、サウルは二度とダビデを追おうとしなかった。

アキシュから「あなたとあなたの部下は、私と一緒に出陣することになっている」ということばに
ダビデは「よろしゅうございます。このしもべが、どうするか、おわかりになるでしょう。(Tサム
エル28:2)」
と答えている。 このダビデの答えに関しても、嘘の上に嘘を上塗りしていることば
で偽善者だとか玉虫色の返答でごまかしているとかの解釈も多いようである。 

しかし、このダビデのことばから、神への忠誠心やイスラエルへの愛国心などが、ばれはしな
いかとのビクビクした様子はうかがえない。 むしろ堂々としかも賢く答えているように受け取
れないだろうか。 ダビデの答えを聞いたアキシュは「よろしい。あなたをいつまでも、私の護
衛に任命しておこう。」
と言いきった。  ダビデは神を信頼していたのではないだろうか。 神
はダビデを神が選ばれたイスラエル人と戦わすようなことを許されない方であることを。 

見える状況はアキシュのしもべであっても、ダビデにとって永遠の主、王は神であり、ダビデは
その主のしもべであるとの自覚は常にあったと思われる。 だから同胞の民を打つなど、絶対
にできなかった。 しかし、詩篇から見るに、アキシュを欺いて過ごさなければならないことは、
ダビデにとっては、心の痛む事であったと思われる。 

いずれにしてもこれらの箇所から受け取れるのは、神がなさること、許されることは、人の常
識とは違う、人の思いもよらないこと、ともすれば異端と見られるようなことがあるということで
ある。 そして、たとえ人からどのように見られようが思われようが、神と神の権威に従い通そ
うとしたダビデを神は愛されたゆえにダビデを砕かれ、助けられたということである。 

ダビデは、「神への最大のささげ物は砕かれた魂である」(詩篇51:17)と歌っているが、神はダ
ビデのように、へりくだった者を愛される。 そしてそのような者に、人が考えられないようなこ
と、思いもよらないことを神はその人のためにされる。 どんな状況の中でも、試練を乗り越え
させてくださり、助けてくださる。 我々もそのような主に信頼していきたいものである。

そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈るこ
と、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主か
らことばをいただき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★旧約聖書 イザヤ書 66:2
      これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御
   告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

★旧約聖書 詩篇 23:4
       たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私ととも
       におられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。



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