めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年9月13日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<奇蹟があらわれるのに神の摂理によって定められた神の時がある>


★新約聖書 ルカによる福音書 5:13
       イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、す
      ぐに、そのらい病が消えた

★旧約聖書  詩篇 28:7
       主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこお
        どりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。

●世の中では偶然ということばが使われることも多い。 「自分が生まれてきたのも偶然であり
生きていくのも偶然、死ぬのも偶然。人生すべて行きあたりばったりだ。」という考えも多いか
もしれない。 また「この偶然性」を受け入れたとき、ともすると不安や恐怖に襲われることが
ある。

神は全能である。(創世記17:1他)  神は万物の支配者である。(黙示録1:8) 神の摂理があ
る。(ローマ8:28) 神の時がある。 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営
みには時がある。(伝道者の書3:1)」
と旧約聖書には書かれている。 また神の摂理とは人生
の出来事や、人間の歴史は、神の深い配慮によって起きているということである。

さて、聖書の中には多くの奇蹟が書かれている。 奇蹟とは辞書には「常識で考えては起こり
えない、不思議な出来事・現象」とある。 奇蹟は、世の自然の法則など何ものも介入させず
神ご自身によって神の方法であらわされるものである。

新約聖書には、主がらい病人をいやされたり、盲人の目を開けられたり、中風の者をいやされ
たり、悪霊を追い出されたり、死人をよみがえらされたりと他数々のいやしに関する奇蹟が記
されている。 ヨハネの福音書によるならば、これらの奇蹟はイエスが真の救い主であり、神の
御子であることを示す「しるし」(証拠)として行われたということである。(ヨハネ福20:31) 主が
行われた奇蹟は、イエス・キリストのわざを通して、神のあわれみと愛と恵みが表われている。 

ただ奇蹟が行われるにも神の時と神の摂理があった。 例えば長血の女の場合は、12年間も
長血をわずらい、その間、多くの医者にかかり、様々な人にも頼ったようである。 自分の全財
産を病を治すために費やしたが、ますますひどくなるばかりで、この世の医学、常識、理論もど
んな人も治すことができなかった。 そのような時、イエスに出会った。 「お着物にさわること
でもできれば、きっと直る」(マルコ5:28)
との信仰でさわると一瞬にしていやされた。

墓場を住処にしていた汚れた霊につかれた人も主の命じにより、一瞬にして解放された。 こ
の人の場合、主がこの人の本心を見られて汚れた霊にこの人から出て行くよう命じておられた
のではないかと思われる。 また、主に求めて来たらい病人は「わたしの心だ。きよくなれ。
との主のあわれみのことばを聞くや否や、一瞬に そのらい病が消えた。

このように神にいやしを求めている者が求めていることがらを解決されるにおいて、世の理論
や医学、知識、人など世のどんなものも成しえることができなくなった時に奇蹟が表れているこ
とが多いようである。 ただ、そのようになったすべての者に奇蹟が表れているともいえない。

たとえば、クリスチャンの小説家であった三浦綾子さんの場合、結核、脊椎カリエス、心臓発
作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しんだ。 クリスチャンであった
が神の奇蹟によっていやされるという体験はなかったようである。 むしろ神はご自身の深い
摂理とみこころによって、奇蹟を用いて彼女をいやされなかったとも言えよう。 

そんな彼女は語っている。 「こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしてい
るのではないかと思います。」「自分の病気は、(神様から)いただいたものです。」と。 彼女の
作品や生き様によって多くの人々が神を知るきっかけを与えられた。 キリストへの道へと導
かれた者も多い。 病に苦しんでいる多くの人々にとっても大きな励ましと感動を与えられた。 

いずれにしても奇蹟があらわれることも神の摂理によって定められた神の時がある。 これほ
ど医学や科学や多くの分野が発達した現代に生きる我々にとっては、キリストの奇蹟は信じ難
いことのようだが、現代でもキリストは2千年前と同じ方であられ、よみがえられて生きておられ
る方、神の御子であり、神と等しい全能者であられる。 だから、いやし他、奇蹟は神の摂理の
中で神の時が来れば、起こり得ることである。 

ただ、世の理論や医学、知識、常識を介入させないことは結構、難しい。 それでも主が、奇
蹟を求める者に対して、神の摂理の中で神の時ということを定めておられるならば、起こり得
るであろう。 

神の摂理ということがある以上、神は奇蹟を体験した者が、ただ喜ぶだけではなく、神に仕え、
その奇蹟を通してより深く知った神のこと、主イエス・キリストのことを、主の望まれるレベルで
伝え知らせるということを願われている。 

いずれにしても我々は奇蹟を体験してもしなくても、人は神の摂理の中に生かされて生きる者
である。 だから、パウロのように「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主の
ために死ぬ。(ローマ14:8)」
と真に告白できるようになりたいものである。 

そのためにも日々絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねること、いつも祈るこ
と、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて聖書を読み、主か
らことばをいただき、聖霊の流れに乗っていきたいものである。 

★旧約聖書  詩篇 105:1
       主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。



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