めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年8月2日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<反省、後悔だけでは人は何も変わらない>


★新約聖書 エペソ人への手紙 4:22~24
       その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅び
      て行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理
       に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:17
       だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
       て、見よ、すべてが新しくなりました。

●”後悔””反省”は人生の中で繰り返しているという人が多いのではないだろうか。 日常生活
の中でも何かと小さな決断、判断の連続で、その後「後悔」と「反省」が付いて回る。 しかし、
繰り返していても一向に当の本人は変わらないということに気づく。 中には落ち込む者あり、
仕方がないとあきらめる者ありと様々である。 どうも”後悔””反省”だけでは、芯からは変わ
らないようである。

さて聖書の中で"後悔”をした者で有名なのが、イスカリオテのユダである。 主に選ばれた12
弟子で、3年半イエスと寝食を共にし、いつも主のすぐ近くで主の奇蹟を見、教えを受けた。 
奥義まで聞くことができた。 にも関わらず、常々心の奥底に潜んでいた思いが、まんまとサタ
ンに引っ掛けられた。

サタンに引っ掛けられた、というとき、もちろん一番悪いのはサタンである。 しかし、引っ掛け
られた者が自分の心の奥底の思い、考え、感情などを点検せず、対処せず野放しにしていた
という、その人の責任も大きい。 要はその件で真剣に祈っていなかったのである。 自分の
内面のことがらに取り組んでいなかったのである。

言うなれば、自分の内面のことがらに真剣に取り組んでいない者は、ただ表面的に祈っている
だけで、ともすれば的のはずれた祈りをしている可能性がある。 だから真に悔い改めるべき
ことを悔い改めず祈っていないということが有り得る。 悔い改めをするには、本当の自分の
姿(特に内面のこと)、罪を罪として知らなければ、真の悔い改めができず、求めができない。 

その人が何を求めるべきか、一番よく知っているのは主ご自身である。 だから主が語られる
ことば、特にその人に語られたことばを、正しく真剣に受け取っているならば、主はその人に、
それまで知らなかった心の奥底を教えてくださる。 そして、それを知って祈り求めた者の祈り
に答えてくださって、見事に清め、変えてくださる。 

神のことばが語られたとき、怒りやねたみ、反抗、憤りなどが出て来たならば、どんなにわず
かなものでも、それをそのまま放置しないことである。 そのまま放置した状態が「何のため
に、こんな無駄なことをするのか。(マタイ26:8)」という思いに留まり、イエスを裏切ったユダと
同じである。 

ただ、クリスチャンがあまりにも神のことばをないがしろにしたり、世が深く入り込んでいるとき
には、なかなか難しいものである。 しかし、神は全能の神であられ、あわれみ深い神であられ
るゆえ、へりくだって祈り求める者を見捨てたりなさらない。 

人の内からはいろいろな思い、考え、感情が出てくるものである。 出てきた時には、それらが
主に喜ばれるかどうか、主のみこころかどうかを考えて、すぐに主によりすがり祈って、古きを
捨て去り新しき人を着ておくことである。 そうすることが、反省でも後悔でもなくキリストに
よって変えられることである。 そうするなら、聖霊を悲しませなくてすむ。

「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。(コロ
サイ3:10)」
とあるように、新しい人は「ますます新しくされ」る。 つまり、新しく生まれたクリス
チャンだからこそ、主との交わりの中での継続的な新しさである。

本当に変わるためには、一言でいうならキリストが必要である。 そしてイスカリオテのユダの
ように自分の心の思いを放置せず、肉の欲望を満足させず、的を得た祈りによって長い習慣
によって身についている古い性質を捨て、新しい性質にかえていただくことである。

そのためには、日々、幼子のように絶えず、主イエス・キリストから目を離さず、主に尋ねるこ
と、いつも祈ること、神に依り頼むことをしていきたいものである。 また、神のことばと信じて
聖書を読むことをしていきたいものである。 そして主に喜ばれる者にしていただきたいもので
ある。

★旧約聖書(口語訳) 詩篇 19:12~14
       だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き
       放ってください。
       また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのない
      ようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れ
      ることができるでしょう。
      わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなた
      の前に喜ばれますように。




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