めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年7月26日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<奇蹟を見るために聖別される>


★新約聖書  第一テサロニケ人への手紙 5:23
       平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリ
      ストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが
       完全に守られますように。

★旧約聖書 歴代誌 29:5
       彼らに言った。「レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あ
      なたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。

●旧約新約を通して聖書の中には数多くの奇蹟が書かれている。 これらの数多くの奇蹟を
通して、イエスが神の子キリストであること、キリストのことばは信ずべきこと、聖書は真実であ
ることを我々に証している。 多くの奇蹟の中で聖書中の最大の奇蹟はイエス・キリストの復活
である。 

この最大の奇蹟、よみがえりのイエスに最初に会ったのはマグダラのマリヤだった。 今まで
にも多くの奇跡を見てきた弟子たちだったが、彼らはその日の夕方に主が現れてくださるま
で、マグダラのマリヤの証言を信じず、主が現れて初めて信じることができた。 そして主から
「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがた
がだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。(ヨハネ福20:22,32 )」
との祝福
と権威のことばを語られた。

ところが、この時トマスだけが不在だった。 不在の理由はわからないが、他の弟子同様、前
もって よみがえられることを語られた主のことばを聞いており、マグダラのマリヤの証言を共
に信じなかった他の弟子たちが、「主にお会いした、主を見た」と言ってもトマスは主のよみが
えりを信じなかった。 

それなのに、主はそれから8日後にトマスの前に現れて下さった。 主のあわれみである。 そ
して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し
入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ福20:27)」と言われた。 
よみがえりのイエスに会ったトマスはその後、地の果てまでもよみがえりの主を伝えに出かけ
て行ったと言われている。彼はインドに赴き、そこで殉教したのだということを聞いたことがあ
る。

イエスは十字架にかけられる前、目を天に向けて父に言われた。「真理によって彼らを聖別し
て下さい。あなたの御言は真理であります。 あなたがわたしを世につかわされたように、わた
しも彼らを世につかわしました。 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし
自身を聖別いたします。 (ヨハネ福17:17~19口語訳 )」

まだまだ信仰においても弱い弟子たちだったが、主が父に弟子たちの聖別を言われていたか
ら、マグダラのマリヤの証言を信じられない弟子たちに現れてくださったと思われる。 どういう
理由かは推測できないが、よみがえられた主にお会いするという非常に大事な時に不在という
のは、トマスにはまだ何らか聖別もしくは聖絶されねばならないところがあった可能性がある。 

聖書では数字8は、復活の数字を表徴すると聞いたことがある。 トマスはこの8日間で神から
の取り扱いを受けたのかもしれない。 神の懲らしめは人を変える。 8日間は、最大の奇蹟を
見るため、よみがえりの主にお会いするための備えの時となったのではないだろうか。 

トマスの場合は12弟子であり、前もって主が父に聖別のことを語ってくださっておられたり、ま
た後の我々に対しての教えのため、主のあわれみを受けたと思われる。 皆がトマスと同じあ
われみを受けるとは限らない。 

しかし神の懲らしめ、取り扱いを受けた者、受けようとしている者には望みがある。 なぜなら
聖書は、神は懲らしめを受けた者は神の本当の子であると書いているからだ。(ヘブル12:8) 
かと言って「私に試練をください、懲らしめを与えて下さい」などと軽々しく求めることは、本当の
「主の懲らしめたるものが何であるか」をわかっていない。 そういう者に突然、神からの試練、
懲らしめが来た時には、挫折するか無意識の内に避けようと最大限に肉が働くことであろう。

真に主の取り扱いを受けた者は、その後その懲らしめによって へりくだりを身につける。 そ
して後ろを振り向かず、もし後ろを見るときには、懲らしめを受けなければならないくらい愚か
で取るに足りない者であったのに ここまで導いて下さったと感謝しか出てこないものである。

たとい目に見える現状、状況がどうあれ、神の真理のみことばに目を留め、「見ずに信じる者
は幸いです。(ヨハネ福20:29)」
と言われた主イエス・キリストを信じ、愛し、従い続けていきたい
ものである。 クリスチャンは肉に従って歩まず、自我に満ちた歩みをやめ、「よみがえり」を土
台とした御霊に従っていく歩みをしていきたいものである。

日々主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主の御前にへりくだって、主を愛し、絶えず祈る
こと、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 

★旧約聖書 箴言 5:23
       彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。

★旧約聖書 箴言 3:11
       わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。

★旧約聖書 詩篇 28:7
       主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこお
       どりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。



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