めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年7月12日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<聖絶のもの、分離すべきもの、古きものを残すな>


★新約聖書 第二コリント人への手紙 6:17,18
       それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れ
      ないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父
       となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

★旧約聖書 ヨシュア記 6:18
       ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを
      取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。

●「聖絶」とは、旧約聖書において神の道に叛くとされた民族や都市国家の住民などを全て虐
殺し、財産も全て滅ぼしつくすこと。 神のために聖別すること、あるいは神のためだけにささ
げられたものである。(レビ27:28) 現代において「聖絶のもの」とは、罪の他にも我々の内に
ある神の喜ばれないもの、神が「捨てよ」と言われるものであろう。 いずれにしても「汚れ」か
らは「離れよ」と書かれている。

ヨシュア記7章には、アカンという人が聖絶のものをこっそり自分の懐に入れていたため、出エ
ジプトしてカナンの地に入り、初戦エリコよりも小さな町アイとの戦いでイスラエル全体を敗北
に導いたことが書かれている。 

神が取り除け、離れよ、捨てよ、といわれるものを温存していたならば、そこから霊の見分け
の間違いや逸らし、偽善、高ぶり・・・などが気づかないうちに入って来て、群れ全体に悪影響
を与えていく恐れがある。 そして、せっかく主が言われる「分離」をして、新しき道に入って前
進してきたにもかかわらず、もとのもくあみになるということも十分、あり得ることである。

著者が13年前まで所属していた教会の牧師は40歳で、ある教団の神学校へ行き牧師になら
れた。 その後、主から直接、その教団が間違っている、主が喜ばないから出よとの主の語り
かけを聞き出られた。 その後、主の導きで単立の教会を建てられた。 主への信仰、みこと
ばに対する態度などは見事で学ぶべきところが多かった。 

しかし、そのすばらしい牧師がその後、ベニー・ヒンやアナコンディア、ピーター・ワグナーなど
に傾注していった。 他の要因もあるが、明らかに道が逸れていった。 また「昨今の神学校は
ろくな事を教えない、間違っている」と、あと数ヶ月で神学校を卒業という婦人牧師に辞めて教
会に帰らせたりした。 もう25年ほど前のことである。 当時このことは案外正しいと思ったもの
だ。 そして教会で牧師が訓練をしていた。 しかし、そのことで思ったことは、マンツーマンで
あってもやり方は神学校と同じやり方ではないのかなということだ。 結局、そのやり方では主
が直接、訓練をなさるということではないので、結果は芳しくなかった。 そして間違った分離
が起こったりした。

あとで主から教えられたことであるが、主から直接、召しと語りかけを受け、主の喜ばれる働き
をしていたのに逸れていった原因は、牧師が前の教団を出る時に、前の教団のもの(教え)を
持ち込んだことである。 神が喜ばれないといわれた教団のもの(教え)を新しい教会に持ち込
むべきではなかった。 それが悪霊につかれて逸れていく原因の一つになったということであ
る。 

イスラエル人は出エジプトするとき、エジプト人の「銀の飾り、金の飾り」(出エジプト11:2)は持
ち出したが、それ以外のもの、エジプト人の他のものは持って出なかった。 つまり、主イエス・
キリストへの信仰や神のことば(聖書)や神の義や神の国(マタイ6:33)は、持って出ても前のも
の(教え)、古きもの、そこのもの(教え)は持って出てはならなかったということである。

古いぶどう酒は新しい皮袋には入れてはならないし、新しい継ぎ切れで古い着物をの継ぎをす
るようなことはしない。(マルコ2:21、22) 「聖絶」とか「分離」ということを考える時、教会や集会
は、聖絶、分離がきちんとなされていなければ、教会全体、集会全体に悪影響があるというこ
とである。 またクリスチャン一人ひとりにおいても聖絶、分離がきちんとなされていなければ、
正しい信仰を全うできない恐れがある。

「ただ、あなたがたは聖絶のものに手を出すな。」(ヨシュア記6:18)ということは、我々は神が、
「否」「捨てよ」「離れよ」「聖絶せよ」と言われることには、へりくだって忠実に従えということで
ある。 また個人個人においても、我々の内側から神に喜ばれないものを、全部根絶やしに
せよということである。 我々の内側に神に喜ばれないものを残してはならない、置いてはなら
ないのだ。 神のあわれみ、いつくしみ、恵み、勝利を受け続けるためにも「聖絶のもの」「分離
すべきもの」「古きもの」を残さないようにしなくてはならない。(申命記13:17)

違う霊に惑わされたり、真実から逸らされたり、高ぶることのないようにするためにも、日々主
イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ね祈ること、どんなことでも絶えず祈り、神のこ
とばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 主に喜ばれる者にして
いただき、主に愛される者になりたいものである。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 5:8
       ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、
       パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

★新約聖書 第二コリント人への手紙 5:17
       だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去っ
      て、見よ、すべてが新しくなりました。



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