めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年7月5日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<クリスチャンにとって2種類の戦い>


 ★旧約聖書 第一サムエル記 17:46,47
        きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離
       し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、
        イスラエルに神がおられることを知るであろう。  この全集団も、主が剣や槍を使わずに
        救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡さ
       れる。」

●「闘い、戦い」というときクリスチャンの場合、「悪霊との戦い」ということをエペソ人への手
紙6章
に書かれている。 この世の支配者は悪魔である。 だから世は強い。 キリスト教会の
中にも世が浸透してきている。 だからクリスチャンであっても広い門、広い道に入り、滅びの
道を歩く人は多い。 クリスチャンは、戦って勝利を得ていかねばならない。 真にキリストを信
じる者は、本来、戦って勝利を得る勇士として召されている。

戦うとき、日々の個人の歩みにおいて、一人ひとりが戦っていく戦いと教会やグループ、集会
が一つになって戦っていく戦いと2種類あるように思われる。 エペソ人の手紙には特にクリス
チャン一人ひとりが兵士として しっかり戦っていくべきであることが記されている。 「腰には
真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、信仰の大
盾を取り、救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣である、神のことばを受け取り、すべての
祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(エペソ6:14~18)」
とある。

また、第一サムエル記17章にダビデと青銅のすね当てを着け、青銅の投げ槍を背負ったペリ
シテ人の巨人ゴリヤテの戦いが記されているが、この戦いは、キリストの兵士の中でもキリスト
の弟子たちが一つとなって戦っていることを教えているように受け取れる。 ダビデは「自分の
杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入
れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。(Tサムエル17:40)
」そして「ダビデは袋
の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額
に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。(Tサムエル17:49)」  ダビデの手には、一振りの剣も
なかったが、この
巨人ペリシテ人を打ち殺してしまった。

青銅はモーセが旗ざおの上につけた青銅の蛇(民数記21:9)黙示録2:18から”裁き”を表し、
杖は信仰の歩みを助けるという意味から”牧師、教師”を表し(エゼキエル書21:13)、川は水
にたとえられる”聖霊”、石は主がペテロに言われたことばから(マタイ16:18)、主の弟子や働
き人を表す。 また、羊飼いの使う袋、投石袋は、新しいぶどう酒を入れる新しい皮袋、教会、
集会を表すと受け取れる。

そのように見るならば、ダビデ(キリストもしくはキリストの選ばれた弟子)は、牧師、教師を用
いて、直接、聖霊によって試練、訓練を受け砕かれたキリストの弟子たちを選んで、新しい教
会、集会に集めて戦いをされるのではないだろうか。 今までは、所属している教会で礼拝を
守り、奉仕をし、献金をしていた。 

しかし、イエスが「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。(マタイ16:18)」と言われた
教会は、新しい皮袋であり、今までの教会に対する考え方と少し違うかもしれない。(ルカ 5:3
8)
 同じ場所で毎週、一緒に礼拝を守ることができない、いわばたとえ距離的に離れている弟
子たちでも、主ご自身の御手によって建てられた教会に入れられるということは有り得るかも
しれない。

霊の一致がなされるまでは、それぞれ、とげとげの石が、川の流れに沿って流されていくうち
に様々な物体にぶつかって、削られていくように、直接、聖霊によって様々な訓練・試練を受け
て砕かれ、へりくだった者に整えられるのであろう。 

クリスチャンであるならば、当然、エペソ人の手紙6章に書かれている武具を着けて、日々の歩
みの中で戦っていかねばならない。 それは基本である。 ただ、今後、主が必要とされている
戦いは、個々の戦いだけでなく、新しい皮袋、投石袋という新しい形の教会の中で、主に選ば
れたへりくだった弟子たちが、主と共に戦っていくという”戦い”ではないだろうか。 へりくだっ
た弟子たちが投石袋に入れられたとき、一振りの剣がなくても勝利する。 それは主の戦いだ
から、主が戦われるからだ。 

いずれにしても、やはり主が望まれているのは、なめらかな石、すなわち聖霊によって砕か
れ、主の御前にへりくだり、主を愛して、主のために戦う弟子である。 ダビデ王のような素直
な心をもって、主を愛していきたいものである。 日々、主イエス・キリストから目を離さず、絶え
ず主に尋ね祈り、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読み、主のために戦い、主に栄光を
帰していきたいものである。

★新約聖書  エペソ人への手紙 6:12
       悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさ
      い。  私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配
       者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。





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