めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年6月28日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<神に愛される者>


★旧約聖書 第一サムエル記 16:12
   エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿
       もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

★新約聖書   ルカによる福音書 18:17
       よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこ
       にはいることは決してできない」。

★旧約聖書 イザヤ書 66:2
       これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御
   告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

●聖書の中に神が愛された登場人物が出て来る。 神に愛されているということは神に選ば
れた者でもある。(Tテサロニケ1:4)  ダビデの場合、名前からして「愛された者」と言う意味
であるが、当時神は、サウルの代わりに新しい王ダビデを立てられた。 それで預言者サム
エルをエッサイのところへ遣わされた。

エッサイには7人の息子がいたが、サムエルから見れば、王者らしい風格と容姿の長男エリア
ブが主に選ばれているに違いないと思った。 しかし主は「彼の容貌や、背の高さを見てはなら
ない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は
心を見る。(1サムエル16:7 )」
と言われエリアブを退けられた。  エッサイの息子7人とも選ば
れなかった。 

容貌(appearance:外観、様子、体裁,、見せかけ;(しばしば「見せかけだけで実際はそうでな
い」の意味が含まれる)や背(stature:名声, 評判、背, 丈)の高さ、つまり、人の外側から見た
様子、名声があるとか評判がいいとか、またクリスチャンとしても神の働きをしっかりしていると
か表面だけを見てはならないということであろう。

7人の息子の中からは主は選ばれなかった。 読み込みすぎかもしれないが、7という数字は
一般的に”教会”をあらわすと言われている。 それからすると、教会内にも神を愛する者がい
ると思うが、神は(一般的な)教会外からダビデのような”神を愛する者”を見出されるのかもし
れない。 

さて、最初にサムエルに招かれた7人の息子ではなく、後から呼ばれたダビデは「血色の良い
顔で、目が美しく、姿もりっぱだった(Tサムエル16:12)」
と書いている。 血色(ruddy)の良い、
目が美し
く(bright eyes:目が輝く, 光る)、姿もりっぱ(good-looking:〔顔, 姿などが〕きれいな;
顔だちのいい、[類語]beautiful)ということである。 つまり一般的に血は霊をあらわすので、
霊的に正しく(ルカ2:25)、真実な者ということであろう。

姿もりっぱ(good-looking=類語でbeautiful)というのは、ヘブル人への手紙11:23「信仰に
よって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の
美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」
の赤ちゃんのモーセが美
しい(beautiful)や「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
(マタイ18:4)」
ルカ18:17などの御ことばから”へりくだって、従順”な者ということを表している
と思われる。

ダビデの生涯は 、戦いの人生だった。 姦淫と殺人という大罪を犯したが、王であってもなり
ふり構わず神の前に泣き、悔い改め、へりくだった。 確かにその後、様々な問題、困難がダ
ビデの身に起きたが、そのたびにダビデは神によりすがった。 砕かれるたびに自分を低くし
て主を愛し通した。 そしてひたすら前に向かって進んで行った。 

神はすべてをご存知である。 人の心の奥底をご存知である。 ダビデが神に愛された理由は
「血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった」ということばの中にある。 すなわち、霊が
正しく、真実であり、幼な子のようにへりくだり従順だということである。 

完全なる者はいない。 あのパウロでさえ「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされて
いるのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。(ピリピ3:12 )」
と言っている。 
たとえ内側から、不純物、肉からのもの、生まれつきのものが出てきたとしても、罪を犯してし
まったとしても、その度、主の御前に悔い改めて、へりくだり、祈って清めていただき、またへり
くだる。 そのようにする度、ますます主を愛するようになるであろう。 

違う霊に惑わされたり、真実から逸らされたり、高ぶることのないようにしたいものである。 そ
のため、日々主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ね祈ること、どんなことでも絶え
ず祈り、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 主に喜
ばれる者にしていただき、主に愛される者になりたいものである。

★旧約聖書 箴言 8:17
   わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。

★新約聖書 第一コリント人への手紙 1:27,28
        しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をは
       ずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。  また、この世の取るに足りない
       者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにする
        ため、無に等しいものを選ばれたのです。



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