めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年5月24日。主が復活された記念すべき日曜日です! ハレルヤ!
<主が望まれる深い祈り>


★新約聖書 マタイによる福音書 26:40
       それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテ
      ロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさまして
       いることができなかったのか。

★新約聖書 マタイによる福音書 6:6
       あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた
      所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父
       が、あなたに報いてくださいます。

●聖書の中で神は我々に祈ることを勧めている。 特に新約聖書では「絶えず祈りなさい」
「たゆみなく祈りなさい。」
と書かれている。 聖書の中の神が良しとされた登場人物もとにかく
よく祈っていた。 ダビデ、ソロモン、ダニエル・・・・。

祈ることによって神との交わりを持てる。 祈ることによって御子イエス・キリストと交わることが
できる。 祈ることによって聖霊に触れられる。 人は祈りなくしては神を知ることはできない。 
神の本当の恵みに預かることはできない。 ”祈る”というとき、旧約聖書の中でよく見られるの
は、人がへりくだって 神の御前に出ている真摯な態度だ。 新約の登場人物もそうだ。 

日々の生活で会社、学校、家事、・・・などに人は忙しい。 時間がたっぷりあるという人の方が
少ないかもしれない。 祈りによって孤児院を経営していたジョージミューラーの奥さんは、
ジョージミューラーと一緒に孤児たちの世話をしていた。 朝から晩まで子どもたちの世話で目
まぐるしく働いていた。 しかし、彼女は昼の1時間だけは、部屋に入り誰にも声をかけさせな
かったという。 その1時間、彼女は神の御前に出て、主との深い交わりをしていたのだ。 つ
まり祈っていた。 

忙しい日々を送っていても祈りの時間は自らが確保する必要がある。 もちろん「仕事しなが
ら」「家事をしながら」「散歩しながら」「・・・しながら」の祈りも大切である。 「どんなときにも祈り
なさい」
とあるからだ。 しかし、深く神と交わる、深くキリストと交わるというとき、体の動きを止
めて静まって祈ることは重要であると思われる。

イエスは弟子たちに言われた。 山上の垂訓とよばれるものであるが「あなたは、祈るときに
は自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父
に祈りなさい。・・・(マタイ6:6)」
と。 イエスご自身も群集からも、弟子たちからさえも離れて、
よくひとりで山へ退かれて祈られた。(マタイ14:23、ルカ6:12) 父なる神の御前で静まって祈ら
れたと思われる。 

ゲツセマネの園で、イエスは、まことの父なる神である方から捨てられようとして、我々の想像
を絶する悲しみの中におられた。 イエスは血のしずくのような汗を流して祈られた。 しかし弟
子たちは、肉体が弱くて危急存亡の秋(とき)であることをわかっていたとは思うが、眠ってし
まった。 本当は弟子たちが、1時間、神の御前に真剣に祈ることを主は望まれていたのでは
ないだろうか。

”神の御前に静まって1時間祈る”、これが我々に主が望まれている祈りの姿ではないだろう
か。 我々クリスチャンは確かにイエス・キリストが我々の罪のために十字架で死んでくださっ
て3日目によみがえられ今も生きておられること。 この方が我々の神であられ救い主であら
れることを信じて救われた。

しかし、救われたからといって完全となったわけではない。 あのパウロでさえ「私は、すでに得
たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。・・(ピリピ3:12 )」
と言っている。 
我々はなお更ではないだろうか。 救われていても弱さはある。 きよめられなければならない
ところもまだまだある。 ペンテコステのとき3千人が救いの道へ入れられたが、そのとき用い
られ説教したペテロでも、昼の十二時の祈りのとき、空腹を覚え、食事をしたくなったり、彼は
うっとりと夢ごこちになったりということがあった。(使途行伝10:10) このときのペテロは幻で神
の示しを受けたが、たとえ、夢や幻で神の示しがなくとも、時には祈りのとき、つい眠ってしまう
ということもあろう。

神の御前でひとり静まり、さあ、祈ろうと思った途端、様々な思いや雑念などが出てきて、なか
なか静まれない、という時もあろう。 それでも やはり 神が望まれている祈りの1時間は、神
の御前にまかり出て体の動きを止めて真摯に祈ることではないだろうか。 深く深く主との交わ
りを持とうとするならば、体の動きを止めて、祈るということも必要なのではないかと昨今、つく
づく感じる。

「・・しながら」の祈りも大切である。 しかし、たとえ5分からでも神の御前にへりくだって静まっ
て祈ることは、霊の深みの祈りへと導かれるであろう。 イエスがゲツセマネの園で弟子たちに
望まれていたのは「・・・しながら」の祈りではなく、1時間、心から神の御前に静まり、祈るとい
うことではないだろうか。 このような1時間まで達するのは、なかなか大変であろうし、できる
ようになるまで時間がかかるかもしれないが、主が望まれている以上、取り組んでみるべきで
はないかと思われる。 

聖霊の深い深い交わりをしていき、本当の神の恵み、祝福にあずかっていきたいものである。 
聖霊の助けと導きを受けて深みのある祈りへと導いていただきたいものである。

今週も、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず祈ること、神のこと
ばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 

★旧約聖書  詩篇 143:5
       私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手
      のわざを静かに考えています。

★旧約聖書  詩篇 65:1
       神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果た
      されますように。

★旧約聖書 ゼパニヤ書 1:7
        神である主の前に静まれ。主の日は近い。・・・・



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