めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年5月10日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<キリストとしっかりつながり実を結べ
!>



★新約聖書   ヨハネによる福音書 15:5,6
   わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の
   中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたが
   たは何もすることができないからです。   だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、
   枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、そ
   れは燃えてしまいます。

★新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5:22,23
        しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この
    ようなものを禁ずる律法はありません。 

●キリスト教会では”実を結ぶ”ことを昔から大切なこととして教えてきた。  「御霊の実」とい
う内側の実と「人が救われる」という外側の実がある。 

著者は「実を結ぶ」と聞いて 最初に思い浮かんだのは、ガラテヤ人への手紙5:22,23の内側
の「御霊の実」である。 主は「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、
不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであ
り、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す(マルコ7:21^3)」
と言われた。 内側が清めら
れ、内側の御霊の実を結ぶなら、それは外側にさえも現れてくる。 そして神が喜ばれる。 周
りの人にも良い影響を与える。

ガラテヤ人への手紙には、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御
霊の実が書かれている。 愛の実、それはキリストを愛すること、キリストにあって人を愛する
ことの実際があられている、すなわち身に着けている。 寛容、それはキリストにあって、人の
どんな表現でも不足に思ったりとがめたり排斥したりせず、よく人をゆるし、受けいれることを
身に着けている。 このように御霊の実は、キリストにあってというように、キリストに繋がって
キリストからいただいたものだけで実を結ぶものである。

また、もう一つはイエスが言われたことば「・・・わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命
したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであ
り、・・・(ヨハネ福15:16)」
の実である。 人が救われることである。  キリスト教会の多くは、
多くの信者を獲得する、すなわち多くの人が救われることに力を注いできたが、この御言葉か
らは、主はその数には言及されていないように受け取れる。 多くの数よりもむしろ、その救わ
れた人が最後まで(寿命の尽きるまで)キリストへの正しい信仰を全うしたとき、実が残ったと
言えるのではないだろうか。 

神が良しとされる信仰を全うできた者は、キリストに繋がり続け、キリストからいただいたもの
で、キリストにあってこの地上を歩んできたことであろう。 そのように考える時、内側の実と外
側の実は、切っても切り離せない、表裏一体のものであるのかもしれない。

「実を結ぶ」ためには、キリストにとどまっていること、枝である人が、幹であるキリストに、しっ
かりと結び付き続ける、繋がり続ける必要がある。 栄養分をいただき続ける必要がある。 
栄養分をいただく、それは、キリストのものをいただくことであり、聖霊に触れられることである。 

それには何と言っても、主の御前にへりくだって、心からの祈りを日々、時間をかけてすること
である。 「つながる、結びつく」ことは、第一に聖霊に導かれて祈ることであるが、日々の生活
で自分の行動、考え、思いを捨て、主の御心を第一にしていくことも、「つながる、結びつく」こと
である。 キリスト抜きでした一切のこと、今、現にしていること、そして、これからしようとしてい
ることは、聖書によるならば、すべて「無」であり、実を結ばない。 「実を結ぶ」ためには、やは
り祈らなければならない。

そして、そのように真剣に祈り求める者を主は、刈り込みをなさる。(ヨハネ福15:2) つまり、
その人に応じて主が訓練をされる。 試練にもあわされる。 真に祈っているからこそ、聖霊に
触れられているからこそ、また主の選びを受けているからこそ、主の取り扱いがある。 主の
訓練がある。 そうして肉が切り取られる痛い経験を通る。 自分の肉を十字架につけなけれ
ばならない経験を通る。 そうして、何があっても剥(は)がれない「御霊の実を結ぶ」ことがで
きる。 平安な義の実を結ぶことができる。 神の聖さにあずかることができる。 そうして神が
良しとされる信仰の生涯を完走することができる。
 
主の訓練、試練、主の取り扱いの多くは、主が一人一人に応じて、日々の歩みの中で与えら
れるものである。 主が人を用いられるということはあるが、それでも主がなさることに、人は
介入するべきではない。 神は我々のことをすべて知っておられ、我々に何が必要で、どういう
訓練が必要なのかを良く知っておられる。 

そして、刈り込みを受けた者が、人に影響を与えるくらい”変わった”と言える者になる。 その
一つ一つの訓練、試練を受けた結果がその人の霊に刻み込まれ、神によって砕かれへりく
だった者の姿に変わる。 そして、神への確固たる信仰と愛に満たされて、(悪しき)霊の風が
強く吹いて来たとしても、倒れない者となる。

「良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。(マタイ7:19)」と主が言
われたが、このことばを厳粛に受け止めるべきである。 枝である我々はキリストに日々、毎
時間、毎分、毎瞬繋がって、離れず、つまり絶えず祈り、主の御名を呼び求めて、聖霊に触れ
られ、幹であるキリストから栄養をいただいていきたいものである。 

今週も、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず祈ること、神のこと
ばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。 

★新約聖書  第一テサロニケ人への手紙 5:17
       絶えず祈りなさい。
 
★新約聖書 コロサイ人への手紙 4:2
       目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

★旧約聖書(口語訳) 箴言 3:6
       すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。


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