めんどり通信/2009年5月3日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<まっすぐな道:神からの見方と人からの見方は違うことがある> |
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★旧約聖書 イザヤ書 48:17,18 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主で ある。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの 正義は海の波のようになるであろうに。 ★旧約聖書 箴言 16:25 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 ●ヨハネの福音書4章にイエスがサマリヤの女と会ったことが記されている。 当時、イエスの ユダヤからガリラヤへの普通の通路は、ヨルダンの谷間を通って行くことだった。 しかし、そ の日は、わざわざ「サマリヤを通って行かなければならなかった」と書いている。(ヨハネ福4:4) 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は交わりをもっていなかった。 紀元前8世紀に北イスラエルが アッシリアに占領されたことをきっかけにサマリア地方には異国人が入植し、民族が混じりあ い、異教化した。 ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、汚れた輩(やから)として蔑み、交わりを 避けて、エルサレムの神殿入りも許さなかった。 それで、サマリヤ人は、エルサレムに対抗 してゲリジム山に神殿を建て、ユダヤ人とサマリア人の対立は一層深まっていくことになった。 そのサマリヤへイエスは行かれたのであった。 (ユダヤ人の)弟子たちから見れば、ヨルダ ンの谷間を通った通路が、まっすぐな道に見えたことだろう。 しかし、イエスが行かれた道 は、まっすぐではなく、ユダヤ人が蔑(さげす)む方向へ行かれるという、むしろ曲がった道、 曲がった方向と弟子たちには見えたかもしれない。 神にはすべてにおいてご計画がある。 主が定められた道がある。 神は、「・・わたしが事を 行なえば、だれがそれをとどめることができよう。(イザヤ43:13)」と言われ、「・・わたしが神で ある。ほかにはいない。 わたしのような神はいない。わたしは、終わりの事を初めから告げ、 まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべ て成し遂げる。』と言う。(イザヤ46:9,10)」と言われた。 だから、主が定められた道は、たとえ人から見て、まっすぐに見えなかったとしても、神がご計 画を成し遂げられるために定められた道である。 たとえ聖書原則から見て、今までの教会の やり方から見て、まっすぐでないと見えたとしても、神が定められた道、神の計画には、何もの も介入してはいけないし、させてはいけない。 聖霊のみが介入できる。 現状がどうであれ、 神の御声、神が語られることば、はっきりと示される主のみこころに信頼し、従う。 そこに聖 霊が働かれる。 そして、そこが実は、まっすぐな道なのである。 今日までキリスト教会は、新しいぶどう酒が注がれるのを待っている。 しかし、新しいぶどう酒 が注がれるには、入れ物である新しい皮袋が必要である。 そして、その新しい皮袋、すなわ ちイエスが言われた「わたしの教会をわたしが建てる(マタイ16:18)」は、ヨハネ4章を見るなら ば、今までのキリスト教会が思っているような建て上げられ方ではないかもしれない。 教会や クリスチャンから見たら、まっすぐではない、と見えるような建て上げられ方かもしれない。 我々クリスチャンは、今までの教会の教え(すべてではないが)、聖書原則、またはクリスチャ ンや教会はこうあらねばならない、こうあるべきだという考え、先入観・・・などなど古き皮袋を 捨て去り、純粋に主の御声に聞き従わなければならない時代に入ったのではないだろうか。 純粋な主の御声こそ、本当は、神のことばである聖書のみことばに基づくものではないだろう か。 純粋な主の御声、か細い聖霊の御声を聞くために、真の神のみこころを知るために、今、 我々がしなくてはならないことは、一人一人が、悪霊の風が吹いてきても倒されないほど、しっ かりと確実にキリストと結びあわされることである。 そのためには、まず祈りである。 時間を かけて心から真剣に祈る者に聖霊は触れてくださる。 そうしていくうちに、主はその人にわか るように語ってくださり、真のみこころを教えてくださるであろう。 主ご自身が建てられる教会(新しい皮袋)の中に組み込まれて、主の御声を聞き、聖霊の導 きに従っていくために 今週も、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶 えず祈ること、時間をかけて祈ること、神のことばと信じて時間をかけて聖書を読むことをして いきたいものである。 ★旧約聖書 箴言 19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。 ★新約聖書 マルコ による福音書 2:22 また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれ ば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう 酒は新しい皮袋に入れるのです。」 |
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