めんどり通信/2009年2月8日。主が復活された記念すべき日曜日で す! ハレルヤ!<神の教えを取るか人間の教えを取るかは永遠の命に関わる> |
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★新約聖書 マルコによる福音書 7:6^8 イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いて いるが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたし から遠く離れている。 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教 えとして教えるだけだから。』 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く 守っている。」 ★新約聖書 コロサイ人への手紙 2:8 あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そ のようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるもの であって、キリストに基づくものではありません。 ●当時、人々は権威ある教えを語られ、様々な病気にかかっている多くの人をいやされ、また 多くの悪霊を追い出されたイエスに注目した。 人々がイエスに傾注すればするほど、律法学 者やパリサイ人、祭司長たちのねたみは募っていった。 時には理屈を言い、時には試すた めの質問をしと、イエスの評判を落とすことに躍起になった。 最終的にはパリサイ人たちのもくろみは成功した。 イエスに傾注していた人々、群集は、パリ サイ人たちの扇動にのせられ、「十字架につけろ。」と叫んだ。 イエスはこのことを見越してお られたのか、前もって、弟子には、天の御国の奥義を知ることが許されているが、群集には許 されていない(マタイ13:11)といわれた。 律法学者、パリサイ人たちには、忌わしいもの、偽 善者(マタイ23章)、あなたがたの父である悪魔から出た者(ヨハネ福8:44)と言われた。 イエスを十字架につけた彼らは、その後(紀元後70年)、ローマ軍により最後の一人まで殺さ れ、町は壊滅的に破壊された。 神の裁きを受けたのである。 律法学者やパリサイ人、祭司 長たちは 主が言われた通り、神の教えを捨て、人間の言い伝え、人の教えを取ったからで ある。 一方、真の弟子たちは、様々な失敗をしながらもイエスにつき従って行った。 イエスが昇天さ れた後は、聖霊が彼らを導かれた。 奥義を知り、不思議な導きや助けを得て、一人ひとりに 応じて神から与えられた地上での務めを終え殉教した者もいた。 いずれにしても彼らが言え たことは「義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である 主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれ にでも授けてくださるのです。(Uテモテ4:8)」ということであった。 これらのことは今後、繰り返されることになろう。 当時と同じような兆候はもう十分見られる。 昔から伝わってきた古き良き正しき福音を聞いて多くの人々が救われ、満たされてきたはずな のだが、様相が変わってきた。 数は世界でクリスチャン人口20億人(カトリック10億、プロテス タント10億)と膨大になった。 しかし、マリヤ崇拝、ローマ法王崇拝など器崇拝をし、聖書を無 視しているているカトリックは論外として、プロテスタントの教会でも、今日の律法学者、パリサ イ人、祭司長に相当する教会の牧師教師、聖書学者・・などキリスト教会の指導者たちが、ア メリカ発の怪しい教えを教会やクリスチャンに広め、浸透させている。 そして、当時と同じように彼らのもくろみは成功している。 実際、「聖霊の第三の波」「艱難 前、2段階携挙説」「反キリストはヨーロッパから出る」「第三神殿がイスラエルに建つ」・・・・など 偽教理を受け入れている教会、クリスチャンの数は圧倒的に多いと聞く。(角笛/終末の警告H P、推奨) また、現在キリスト教会をおおっているトレンドとかいう傾向は、「キリスト教のユダ ヤ化」であるという。 後の雨、トロント、ペンサコーラリバイバルの霊は金粉をまき散らすとい うが、それはユダヤカバラの錬金術の影響と言われている。 また、アメリカで広がる統治主義だとか、再建主義だとか、律法的で、容赦のない、裏のありそ うな教えは偉そうな尊大な物言いのユダヤ学者が主張する教義だという。 要するにどこもか しこにもユダヤの影響が起きてきている。(HPエレミヤの部屋No.376より) 太田 龍・著の「ユダヤ問題入門」の中には「キリスト教会の二千年近い歴史は、最初からユダ ヤ教との生死を賭けた闘争の連続だったのです。この闘争は、キリスト教側の連戦連敗で あったと言わなければなりません。」と書かれていた。 ユダヤ人はトーラー(旧約聖書中のモーセ五書)を受け入れていると言っても、イエスを殺し、 いつまでもイエス=キリストに対する痛烈な中傷を繰り広げ、タルムード(ユダヤ教の口伝律法 (ミシュナ)とその注解(ゲマラ)の集大成)、すなわち人間の教えを、昔も今もユダヤ人の生活 規範・精神文化の基盤としている。 聖書によるならば律法学者、パリサイ人たち、群集は神の裁きにあったように、そういう偽教 理や冒涜的な教えを教える者たち、受け入れる者たちも今後、神の裁きにあう可能性が十分 ある。 いや必ず神によって裁かれるだろう。 我々人が、このような偽りや惑わしや神の裁きにあわない方法は、一言でいえば「主イエス・キ リストとともにいる」ことである。 惑わされる、間違う、それはちょっとした失敗では済まされな い。 そのことは永遠のいのちを失うかどうかに関わることである。 だから我々は、「イエス・キリストは『私たちの罪のために死なれたこと、 また、葬られたこと、 また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(Tコリント15:3,4)』 、そして今も生きておられ 求めてくる者たちに、救いを与えてくださること、イエス・キリストを信じ、キリストの血によって義 と認められた者たちが、キリストによって神の怒りから救われること(ローマ5:9)」を信じて、 聖書を読み、日々、絶えず主に祈っていきたいものである。 真剣な心からの祈りに神は耳を 傾けてくださるであろう。 ★新約聖書 ヨハネの第二の手紙 1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていませ ん。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。 ★旧約聖書 イザヤ書 48:17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主で ある。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。 |
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