めんどり聖書研究会


めんどり通信/2009年1月25日。主が復活された記念すべき日曜日で
す! ハレルヤ!
<主を信じる者は何事でも主に尋ね、答えと導きを得る>



★旧約聖書  イザヤ書 48:17
       あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主で
   ある。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

★旧約聖書  詩篇 119:2 
       幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。  

●我々クリスチャンは、『イエス・キリストが自分の罪のために十字架で死なれたこと、葬られ
たこと、三日目によみがえられて今も生きておられることを信じ、イエス・キリストを自分の神
であり救い主である』と受け入れて救われた。 主を信じて救われた者は、神の御手の中に
入った、もしくは神の支配下に置かれたとも言えよう。

だから本来、クリスチャンの人生は神が主導権を持たれることは当然のことである。 神は、
「人をご自身のかたちに創造された。(創世1:27 )」  神は人を奴隷にするためではなく、人
を祝福の対象、愛の対象として造られた。 それだから救われてクリスチャンになった者は、
神が語られたおことばを素直に受け入れる、信仰をもって受け入れ従う、それだけのことである。

しかし、罪が入った人は蛇のように賢くなってしまった。 その賢さはいつも神に逆らい、自分
の考え、思いを優先して、自分の道、人の道を行こうとする。 神はまっすぐな方であるが、人
は様々な理由をつけて脇に逸れようとする。 旧約聖書の伝道者の書7:29「神は人間をまっす
ぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる(新共同訳)」「神は人を正しい者に造られた
が、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(新改訳)」
のみことば通りである。

クリスチャンになったということは、ゴール(天の御国)へ向かってのスタートを切ったということ
である。 「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。
(箴言20:24)」
と聖書に書かれている。 

この地上での人生において、人には良いこと、悪いこと様々なことがある。 人生の節目という
ほど大きな出来事ではなくても生活の中で絶えず決定しなければならない場面に出くわす。 
その度、誰の基準、何の基準を最優先するかどうかでクリスチャンであるかないかが、わかる
というものであろう。

本来、神の支配下にあるクリスチャンの正しい姿、神の望まれる姿は、幼子が親に一つ一つ
尋ねよりすがっている、その姿である。 旧約新約時代においてダビデ他多くの神の喜ばれる
器たちは、一つ一つ、神に尋ねながら歩んでいった。 神に尋ねない時には、失敗したり悲惨
な状況になったりした。  

失敗の例の一つに旧約聖書、ヨシュア記9章にヨシュアたちの失敗談が書かれている。 エリコ
とアイでの圧倒的なイスラエルの勝利を聞いたカナンの王たちは一つになってイスラエルと戦
おうとしたが、同じカナンの地のギブオンの住民は、「神、主がそのしもべモーセに、カナン全
土をイスラエルに与え、その地の住民のすべてを滅ぼしてしまうようにと、お命じになった(ヨ
シュア記9:24)」
とのことばを厳粛に受け止め、生き残るためにイスラエルに使いを送った。 使
いたちは固いパンや古い袋、古い衣装を持って、自分たちが遠い国から来た者のようなふりを
して、自分たちを殺さないようにとの盟約を結んだ。

ヨシュアたちは彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった。(ヨシュア記9:14) 
見た目で判断し、人の語る言葉で見事にだまされてしまった。 結局、後にイスラエルはカナン
の諸部族を打ち滅ぼせという神の命令を行なうことができなくなった。 人はいくら分別力が
あっても、限界がある。 正しい見方は神から来る。 

失敗、間違いもやり直しがきくなら、それはそれで学びとなる。 しかし、間違った道を、後戻り
ができないほど突き進んで行くなら、それこそ取り返しのつかないことになる。 まして、それが
(永遠の)いのちに関わることであるならば恐ろしいことである。 終末に入ったか入る寸前と
いう今の時代、闇の力はクリスチャンが進む道を迷わそう、惑わそうと大いに働いている。 間
違った道を進んでいることを覚(さと)られないようにサタンは巧妙な策略を張り巡らしている。 

自分は無力な者、無知な者と認めて、絶えず主の指示を仰いでいく者こそ、神の御前にへりく
だっている者である。 そのような者が、深い深い神の恵みと祝福を受けるのである。 そのよ
うな者に神はこたえてくださる。 語ってくださる。 また、惑わしから逃れ、偽りを見破り、正し
い道、すなわち神の定められた永遠の命への道を、まっすぐに進んでいけるように導いてくだ
さる。 

そのため、主イエス・キリストから目を離さず、絶えず主に尋ねること、絶えず祈ること、神のこ
とばと信じて時間をかけて聖書を読むことをしていきたいものである。

★新約聖書  ローマ人への手紙 10:17
       そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるの
      です。

★旧約聖書  詩篇 3:4
       私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。




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